わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】エピソード(4)目覚め

わたしはかつて、浄土真宗は、なんて自分に都合のいい身勝手な考え方をしているんだろうって思っていました。

他力?あなたまかせでいいの?人生は自分で切り開いていくものじゃないのか?って。
ましてや、悪人でも救われる?そんなのありか? みたいな。

でも
それは全く全く正しかった。

一年前、わたしの身に起こったこと。

認知症の母が寝たきりになり、施設に入れたくても空きがなく、空きがあっても重度であるため入所費用も半端なく、
手段がないため仕事を辞め自宅介護にふみきりました。

そんな折かみさんが鬱になり、リストカット
長期の入院を余儀なくされました。 
収入は完全に断たれ、かみさんの医療費も高額で、途方に暮れました。

今まででも経済的な困窮はありましたが、こんなに前途が真っ暗な状態になった事はありませんでした。
行政の支援もお願いしましたが、まず資産を処分してから来なさいと断られました。
処分するにも、なんせ、ど田舎の地所ですので土地も家も買い手などつきません。

困り果てたわたしは、来る日も来る日も思案に明け暮れました。

そして、あきらめたのです。

もう起こる事と戦うのをやめよう。自分はもう死ななければならないなら死のう。
いや、積極的に死を選択するのではなく、そうなるのであれば受け入れよう。
世界が有るなら、それを現している元の、なにか偉大な力が存在するはずだ。
それに自分の全てをまかせよう。生きようと必死になるサバイバルを捨てよう。

そうして、その偉大な力、いわば源泉に、または神に。
わたしはわたしの人生だろうが、身体だろうが、命だろうが、魂だろうが、
ありとあらゆる自分に関わる一切を差し出したのです。

そうするとどうでしょう!なんと。
自分の苦悩から解き放されたような解放感に浸れたのです。

そして、ここに!
この胸の、ここに!
説明のつかない、ふくらみのある何かが現れたのです。

それは今まで味わったことのない幸せ、喜び、条件を必要としない愛と共に現れました。
わたしはその至福の故に喜び、その感謝の故に泣き、
溢れ出るその愛の故に、酔いました。
それは今でも、ここに。この胸のここから溢れてきます。

それが現れてから数日後、生活も、家のローンも、治療費も出してあげよう。返さなくてもいい。
そんな人が出てきたのです。
まさに神が、わたしの人生の主導権を引き受けた瞬間です。

わたしは自分の内側に、絶対的に信頼できる神を得たのです。
それ以来、わたしは内側に、神の側に向いていて、頭のほうに意識を移動するには若干気力を使わなければなりません。

自分の全てを放棄して、内なる神におまかせし、何であれそのみこころを受け入れる。
全くの他力です。

そして、わかったのです。
だれもが本当は神の要素であることを。
それらは何一つ離れてはいない。
全ては一の中にある数限りない一であって、それらは集まっても全部で一であることを。

だれも生まれたものではない。
だれも死ぬものでもない。
世界は、みこころによって意識に立ち現われた映像にすぎないことを。

この至福の世界こそ、法然の言う浄土であることを。
そしてそれは、あの世にあるのでも、この世にあるものでもなく、
ああ、それはほんとうは、全てなんだということを。

しかしながら、ほんとうにこの表現はいいのだろうか?
言葉では言えない。
それは存在しているとしか、これしか言えない。

ただ、他力は、正しかった。
今までほんとうにわかっていなかった。
これは、経験してはじめてわかる事なんだと実感できた。
このことだったんだって、わかったんです。

もう身体を離れるのはいつでもいい。
明日でも、今からでも。

みこころに従います。
みこころが成就されますように。