わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】瞑想で悟れるか

瞑想は自己を見つめるうえでは、欠かせない行です。

自我を見つめ、自我に気づき、自我から離れ、
内なる静寂に気づけば、そこは空(くう)です。

その静寂は、安楽で、サーマディー(三昧)の世界でしょう。

たしかに、瞑想は悟りの準備を整えていくには有効な手段です。
しかしながら、瞑想そのものが悟りを招くのではありません。

気づきは、瞑想とは無関係に、突然現れます。
それは、畑に鍬を振り下ろそうとした瞬間かも知れません。
日が落ちて、縁側のすだれを巻き上げている瞬間かも知れません。

サーマディは境地です。
悟りは境地ではありません。

瞑想から戻ると、境地は失われます。
悟りは、失うことがありません。

ひと度気づいてしまうと、それはいつも「ここ」にあります。

気づきには、荒行や苦行、辛いお勤め、戒律や作法、がんばる思い、
そのようなものは一切必要ありません。
むしろ、それらは弊害にさえなります。

内なる目で無明を見るなら、明知によって照らされます。

第三の目・・・といえば、みんな眉間にあるかのように思っています。
だから、インドの聖者になじられます。
「君は眉間にちからを入れて、なにをしようと言うのかね?」

静寂に入れるなら、そこにある「わかるちから」がある事に気づくべきです。
「わかるちから」が第三の目、内なる目です。
それは思考ではなく、エナジーです。
頭脳の優秀さではなく、感性の問題です。

真に純粋な潔らかさが必要です。
幼子のような天心さが必要です。
この「わかるちから」というセンスが、真実を捉えてくれます。

それが、なにげない日常で、
特に意識もしないのに・・・
捉えてしまうんです。

修行も瞑想も経験ない、普通の人に、それが起こります。
であれば、サーマディに入れる達人が、悟れないはずがありません。

さあ、それを阻害しているのは・・・なあに?

悟りは、勝ち取るものではありません。
その準備ができた人に、恩寵(おんちょう)によって与えらえるものです。
いりません!って言っても、与えられてしまいます。

死ねば仏になって彼岸に至れると・・・本気で信じている人がいます。
ザンネンですが、
それは、無理なことです。
知るべき事がまだ残っているのです。
そうであるなら、再び母体に宿るでしょう。

知識はなんの役にもたちません。
ただ、体験による学びが、教えてくれるでしょう。
苦悩の人ほど、大切な学びをしているのです。

源泉は、どうしても、悟りに向けて運んでくれるのです。
源泉は、気づいてほしいのです。
学びのために、与えたその生は、それは試練ではありません。
自分のための課題です。
真摯に向き合えば、誰にも悟りは与えられます。

幼子になって、あるがまま、内側をみましょう。

 

 

2012-03-02

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