わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】やっぱり明け渡ししか無いと思うんだ

誰もがこの世界、宇宙は現実であって、これ以外の世界は無いと捉えるでしょう。
マインドの思考はそのように働きます。

ほんとうは自我意識に世界が映し出されているだけなのでしょう。
自分の中から現れた自分の物語が、映し出され、
その主人公に収まっている自分を観ているだけなのでしょう。

言葉で思考し、つまり、ありとあらゆるものに名前をつけ、そして定義し、断定します。

言葉を知らない赤ちゃんは、見える世界が現実かどうかなど、どうでもよくて、
ただ、生かされて、ただ存在して、
定義も断定も無いから、ありのまま見ているのでしょう。
それが真人の見かたです。

成長と共に誰かから言葉を教えられ、名前、意味、定義、断定を刷り込まれます。
それは、遠い昔から受け継がれてきた価値観であり、あたりまえと呼ばれる正体なのでしょう。
たぶん、自分で経験からわかっていった価値観ではないのでしょう。

もしも言葉が無かったら、人は動物と同じように、
感覚で知る、研ぎ澄まされた察知力を忘れる事など無かったろうに。
頭のいい、知識好きな、人というものは、かえってそれで無明に陥る。

さて、それら押し付けられ、刷り込まれた価値観や、欲や、執着、虚栄を一切放擲し、
自己の内側の「ただ在る」に漂い、くつろぎ、そこに座を置き、いつもそこに留まるなら、
静寂の彼方から「わかるちから」が活性化されていきます。

やってみたけど出来なかったぞ!という人もいるでしょう。
そういうあなたは、すばらしい。
たいていは、やろうなんて思いもしない。

出来ないのは、完全に明け渡していないからです。
自我のどこかに、「捨てたくない、それは恐ろしい」という部分を隠しているからでしょう。

完全に、もうどうなってもいさ、神におまかせしてしまおう、
神が起こすことを、何から何まで受け入れよう、って気になれば、出来ちゃうんです。

それなのに、他力では悟れないと、言う人がいる。いてもおかしくはないのですが。
しかしながら・・・

やんちゃな自我に何が出来ようか?
ハチャメチャな自我に何が出来ようか?
自力という自我のやっきな力任せのやり方で、得られるものは真実だろうか?

おまかせしてみればいいのです。

それは責任放棄とはちがう。
責任という言葉と定義さえ、あなたに刷り込まれた幻なのですよ。
おまかせして、与えられるものを受け入れるだけでいいのです。
そうすれば、わかります。
とてもシンプルです。

わたしは、自分の一切を内なる神に差し出して、「これ」を授けられた。

所有に拠らない真実の愛、欲の達成とは違う満ち足りた至福、
許すことによる完全な許し、自分勝手な我ままである自我からの自由、
そして、この胸の「ここ」。

そしてさらに、その源泉(神)こそが真我となんら違わないと言う真実を理解した。
つまり、それにまかせる他力は、いわば本当の(真我の)自力を目覚めさせるということ。

ナンチャラ闘争と言われるように、
朝から晩まで、一生懸命ムニャムニャを唱えて、それが何になる?
願望を達成したいから?
自我が自我の欲を満たすために、シャカリキになって自我の捉われになっていていいのでしょうか?

真我を開発する?
なんという誤認だろう・・・

真我は開発など出来ない。
それは、すでに存在している。
あなたは、それだ。
それなのに、どうして開発できましょうか?

願望達成欲が根本にあるから、そのように迷妄するのでしょう。
無明に陥るのでしょう。
ベクトルは、逆です。
逆に向けば明知が輝いています。
無明を照らす光です。

それが自我意識にも及んでいく。
それが覚醒だ。
それに気づく。
それが悟りだ。

そして、真実の自分、真我に留まり、二度と再びそれから離れないなら、
それが解脱だ。

つゆほどの願望もそこには無いでしょう。
ただあるがままの、満ち足りた安らぎの中に究境し続けるのでしょう。

それでも、残りの寿命は約束であって、経験しなければならない。
悟後の修行と言われる。

その修行は、大いに、大いに、楽しんで生きる修行なのでしょう。

 

 

2012-03-16

 

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