わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】続・サムサーラ(輪廻)

誰もが必ず死を迎えるのに、なぜ生まれてくるのでしょう。
どうせ死ななければならないのなら、生まれる必然はどこにあるのでしょう。

カルマと言われます。
そう言われると、なにか自分が、とんでもなく悪い質の者で、
その浄化のために生まれ苦しみ死に行く定めなのだろうと思うかも知れません。

そんな事はありません。
誰もが神の愛によって、その体験を運ばれて行くのに、既に愛され、許されているのに、
カルマ、原罪、そのようなものがあるのでしょうか?
そんな事も人の発明です。
なんでも創り出してしまうのです。

ついには、玄関を出るなら右足から出なければ良からぬ事が起こりますという事さえ創り出します。
そのような倒錯にさえ、気づかないでいます。

神が何も間違っていなくて、完璧であるならば、それを根源とする誰もが完璧です。

苦しむために生まれてくるのではなく、苦しみを体験するために生まれてくるのです。

その違いはどこにある? と思うでしょう。
カルマ、原罪で苦しむために生まれてくるのであれば、人と言うものはなんと悲惨な存在でしょう。
苦しみを体験するために生まれてくるのであれば、その先には学びという得難い結果が輝いています。

しかも、それは何かに押し付けられて、そう生きなければならないのではなく、
自ら望んで、選んで、これを体験しようとして、結果そのように様々な生を生きているのです。

カルマ、原罪という自己にまつわる起縁で流れて行くのではありません。
あそこに! すばらしい結果が待っているからそこに行くだけです。
そのように運ばれるのです。
それを拒否し、抵抗するから・・・味わうのは苦悩です。

おそらく、いろんな教え、宗教、スピリチュアルな思想を、
あちらこちらと渡り歩いた人は、どこでもカルマや因果応報という、乗り越えられない壁に突き当り、
その度に、打ちのめされた事でしょう。

わかってしまえば、ああそうなのか!って、わかります。
ほんとうに今まで信じて疑わなかった常識、当たり前、価値観を手放してしまえば、
絶対的に信頼できる内なる神に気づき、そのみこころに委ねてしまえば、
「それ」から教えられます。

生まれ生きる体験は、そんなドロドロした呪縛のような法則から来るのではありません。

誰もが、最初から許されきっていて、愛されきっています。
ただ、体験したいと、あなたの源泉が希望し、あなたが選んだだけです。
カルマや原罪、因果応報に縛り付けられて、どうしますか。

何もなく貧乏でも、愛されなく孤独でも、病に苦しんでいても、
そこから学ぶのです。

いろんな学びのために、いろんな生を生きるのです。

それは生まれ変わりなのではなく、いつでも、あなたは「ここ」に在って、
意識に現れる、自分シリーズの物語を体験しているだけなのです。

人は、なぜか惹かれるものに出会います。
それにドップリと浸ってみたいような衝動にかられてしまう事もあるでしょう。

切子細工を時間を忘れて、いつまでも飽きずに見ている人もいるでしょう。
そういう人は、かつての物語で細工職人だったかも知れません。

ムーンライト・ソナタアルペジオの次に来る付点音符のタッチの味がどうしても気にかかる人は、
かつての物語で表現技法を研究したピアニストだったかも知れません。

なぜか赤橙の布をまとったスキンヘッドの中年男のイメージがいつも出てくる人は、
かつての物語で修行に打ち込んだラマ僧だったかも知れません。

でも、人は勘違いもするのです。

人は、全き自己を完成し、明知を得、解脱し、涅槃に究境するなら、二度と物語には戻りません。
そういう人は、再び母体に宿る事をしません。

ですから、わたしは仏陀の生まれ変わりだ・・・とか、
わたしこそは弥勒として救済のために生まれてきた、
そのような意味不明な事を言うのであれば、
それは、あり得ない自己倒錯です。 妄想、迷妄の極みです。
そこそこの組織団体には有りがちです。

仏陀も、キリストも、あなたも、わたしも、人間です。
悟り、完成された人は、二度と自我意識に世界を展開することは無いでしょう。
あなたもわたしも、いずれそうなります。
どこにも特別な人などいません。
特別な人になる必要もありません。
みんな同じそれぞれの個性をもって存在する、あの唯一の断片、要素、エレメントです。

やがてだれもが、そこに、ニルヴァーナに帰ります。
浄土に帰ります。神の国に帰ります。源泉に帰り、同化します。

ただの物語という、この夢から、覚めるのです。

 

2012-03-18

 

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