わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】死んだらどこに行くの?

「死んだらどこに行くの?」 時々、こういう直球を投げてくる人がいます。

答えは、「どこにも行きません」としか言いようがありません。

もともと誰も生まれてなどいません。
誰も死に行く者でもありません。

あなたはいつでも、「ここ」にいます。

寿命は既に、あなたの物語に書き込まれています。
その時が来れば、老化や病などで身体に変容が起きてくるか、
あるいは、突然の事故などによって身体が機能しなくなってしまうでしょう。

それじゃ嫌だと拒否しても、そうなります。
命は、そのように運ばれます。 運命は筋書き通りに流れて行きます。

どのような亡くなり方であっても、
だれでも、寿命で亡くなるのです。

それでも、あなたの本性、本質はどこにも行きません
無になる事もありません。
そのような事に恐怖を抱かないでください。

その時、他の人にはあなたの身体が、動かない物質のように見えるでしょう。
あなたが作り出していた世界と、他の人の世界との意識の交差が絶たれるので、そう見えます。

あなたにとっての世界はもう終わっていますが、他の人の世界はまだ続いています。
もしも目に映る世界が真実としてひとつで、70億人に共有されているものであるならば、
あなたにとっての世界が終る時、だれの世界も終わる事でしょう。
それなのに、あなたが死んだとて、他の人たちの世界は、それぞれ存続し続けます。

そういうわけで、世界はそれぞれの意識に映し出されている幻だと言うわけです。
世界の中にあなたがいるのではなく、
あなたの中に世界があるのです。

あなたは自ら映し出した世界で自ら悩み、楽しみ、苦しみ、愛し合い、人生を学んでいるのです。
そういう物語を、選んで経験しているのです。

身体から離れたとて、なにも変わりません。
あなたの本質、実体は、いつだって「ここ」にあります。
その「ここ」が真我です。源泉です。

しかしながら、身体を離れたら即、真我に気づくかといえば、そうでもありません。

自我意識は、エナジー。 マーヤがそれを支えています。
身体を捨てても、存在しています。
それは、その後も、世界を創り続けようとします。

さて、ここから先のお話は、イメージです。
ひとつの考え方のモデルです。
真実かどうかなど、どうでもいいのです。
ただ、考えるための、あくまでもひとつのモデルです。

それだから、その自我意識は、身体を離脱しても他の身体をもった意識と交流しようとします。
それで、かつての自分の動かない身体を見るでしょう。
同時に、自分の自我意識が創り出す死後の自分の身体も見るでしょう。

その違和感に、自分は死んだのか・・・と知るのでしょう。
それでもなお、自我意識は世界を創りだす癖を止めません。

そうして、過去の記憶から、知識を探し出します。
知識の中には、三途の川のようなものがあるかも知れません。
それをみつけた瞬間、あなたは三途の川の岸辺に立ちます。
そこまでしか知識が無い人は、そこでなにかしらに向って導きを求めるかも知れません。

あるいは、三途の川には三つの橋があり、生前の行いによってどれかの橋をわたるのだと、
そのような知識をみつけた人は、それを渡るかもしれません。

いずれにしても、その川を見るのは、日本人だけです。
外国の人は、それぞれ別の知識を探し出し、それを見るでしょう。

自我意識に世界を創る癖が、かつて得た知識のとおり、淡い世界を作り出すのでしょう。

そうして、お花畑や、石ころだらけの荒野や、あるいはとんでもない世界を創りだして、
そうやっているうちに、ある時、自我意識に新しい有機体が組織化され、
あなたはそこに入り込むかも知れません。

あたらしい物語を選択したのです。
そうやって生まれるという、夢を見始めます。
そういうサイクルは、自我意識とは違う、ほんとうの自分に気づくまで行われるのでしょう。

その気づきは、自我意識に身体や、世界が現れていないと、
つまり、この世界に生まれ、生きている状態でないと気づきにくいのです。
この世界だから、自我と真我のくっきりした相違を見て取れるのです。

ですから、もしも、あなたが瞑想をするなら、どうぞ眼を開けたまますることです。
自我が見る世界と、真我に気づいている自分と、そのはっきりとした相違を感覚し、
真我にフォーカスしていく事が、大事なのです。

世界を失った自我は、好き勝手な世界をあれこれ創り出し、
それはそれで自由なように思えますが、
マーヤの計算され尽くした統率を得難いのでしょう。

それで、再びマーヤの導きである新しい物語を、選択させられます。

身体をもったまま気づくのであれば、
それは知るべきを知り尽くして、再び物語を選ぶ必要はなくなるでしょう。

即身成仏以外に悟る道は難しく、
その完成は極めて希であっても、
いずれは、だれにも訪れます。

とてつもなく長い年数がかかる?
大丈夫。 時間は、存在しません。 いつだってあるのは今です。

しかも、近年は、そのような人が多く出ています。
これからさらに、気づきの連鎖は進むでしょう。

以上は、あくまでも、考え方のモデルですので、
信じる必要はないし、信じたらいけません。
真実は、あなたに源泉自ら知らされます。

なんであれ、信じることより、わかることだけが必要です。

 

 

2012-03-21

 

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