わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】自らを拠り所としなさい

仏陀は言いました。
「他を拠り所とせず、自らを拠り所としなさい。」

これは、他人に頼らず自分で何とかしなさいって事じゃなくて、
(マジでそう解釈する人がいるんですよ。 驚く事に)
本当に拠り所とするべきは、自己の内側にあるのだって事です。

見える世界の中に、神はありません。
もちろん、神の臨在で満ちてはいるのですが、
神の臨在とは、神の意志が現象世界のバックボーンとして在るっていう意味です。
「神そのもの」とは、ちょっと違います。

では、「神そのもの」はどこにあるのでしょう。

神という名前に拘らないでください。
拘ると、生い立ちの過程で刷り込まれた思い込みのイメージで捉えてしまいます。

源泉でもいいし、根源でもいいし、全くの根本という意味です。
それは、宗教とは結び付きません。
もともと在るものです。
というより、ほんとうはそれしか在りません。
だから何度も言うのです。
あなたは「それ」なんだよ!って。

「在るのはそれだけ」なのだから「在るあなた」は「それ」です。
自分を・・・身体だとか、思考する意識だとか、心だとか・・・どれも間違っています。

心じゃないの? って思うでしょう。
もしもあなたの心が、変化せずに、落ち込みもせず、ハイにもならず、懐疑心も虚栄心も慢心も、
菩提心も・・・変化せず、頑固に燦然と輝いていたら、それは真実でしょう。
しかし、心は変わります。
真実が変わったら、真実ではありません。

ところが、変わることのない真実が内側に、心を超えた深層に在るのです。
それは、ただ在ります。

表面に現れている自我意識とはちがう、自分の内側の奥底に、その入り口があります。
それをわたしは、「窓」と言っています。
その窓が、「ここ」にあるんです。
胸の真ん中です。
アナーハタです。

ラマナは胸の右側だと言ってるようですが、
そういう人もいるでしょう。 否定はしません。

その窓が開くなら、その向こう側は、言葉では言い表せない愛の世界です。
ラーマクリシュナが放心状態で立ちすくみ、観ていたものです。

自我を離れた事を感覚し、思考、想念のマインドが静かになり、
内側に注意力をフォーカスすると、
そこに静寂の無限の世界が広がっている事に気づきます。
それは、何にも無い、”Null”の世界です。空(くう)です。
サーマディ(境地)を感覚するでしょう。

そこからさらに、恩寵に至らなければ、そこに留まれません。
窓が開き、源泉から愛が溢れ出し、自我意識にまで押し寄せ、世界に噴出すなら、
ハスラーラの窓も開いた事になります。

頭が解放されて、まるで頭が無くなったような気がするかも知れません。
世界そのものが、自分の頭になってしまいます。
もはや、自他の分離はそこにはありません。

自らを拠り所としなさい・・・とは、その源泉を、しっかり信頼して行きなさい、
という意味だと思います。

自我の執着するものを握り続けながら、神仏にすがっても、
かえって精神が混乱してしまうと思うんです。
執着は心の汚れです。
それこそがカルマであり、原罪なのでしょう。
気づかないうちに、歯垢のように、心にこびり付きます。

誰でも一度や二度ではなく、数えきれない程、神仏に祈り、願い事をしたはずです。
それ、叶えられましたか?
外側にいる神仏に、心の垢を付けたまま身勝手な願い事をしても、聞いてくれません。
もしも、叶えられたなら、それはきっと、

危ないやつでしょう。

さわらぬ神に祟り無し・・・と言われます。
宗教は、正しく理解するなら、とても素晴らしい学問ですが、
盲信すると、誤信すると、危険でもあるようです。

逆に言ったら、宗教は無くても、神は見捨てたりしません。
だって、それを信じるかどうかで、人の優劣なんて振り分けませんから。
皆さん、同じポテンシャルです。
どのようであれ、優劣はありません。

宗教は人の発明品です。
そうであるなら、他の思想もそうでしょう。

大切なのは、本当の事。 真実。
人の発明した物ではなく、思い込みの物ではなく、
思考を離れた、純粋な、清らかな、聖なる、内なる領域に、それを見つけて下さい。 

 

2012-03-28