わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】体験しなければならない夢

カンフー映画というのが、かなり昔全盛だった時期があったようです。
ブルースリーのスピード感のあるアクション、ヌンチャクの妙技に観衆は驚きました。
そして、映画館から出てくる人は、だれでも、ブルースリーになっていたのです。
あっちからも、こっちからも、「アチョーッ!」って・・・

映画を見ている時は、自分を忘れてのめり込んでいます。
内容が派手であればあるほど、まるで、自分が演技しているかのごとく、感情移入します。
そこでは、見ているだれもが、ブルースリーになっているのです。

主人公を、自分のごとく見ていて、なおかつ、映画を見ている自分もいる。

映画は現実そのものです。

映画が現実であるという意味ではなく、映画を見ているその有り様が、現実と同じなのです。

ほんとうは観察している何かが在るだけです。
観察している何かが、観察している何かの中に「現れ」を創っているだけです。
瞬間瞬間、新しい現れを現しているだけです。
わたしの物語が綴られたフィルムに光を投射して、自我というスクリーンに映像を投影しているのです。

我々は、「ああ、なんて面白い自分の物語だったろう」って、ほんとうの自分に戻るのは、いつの事でしょうか。

映画の映像は、ほんとうはひとコマひとコマの静止画像です。
消えた画像を記憶が覚えているから、連続した流れる映像として見ているのです。
映像は、記憶に入って、はじめて流れを感覚します。。

記憶の中で、現れを順番よく見比べるから、「前後」という、時間の観念が生まれます。
時間の観念が変化の連続を見るから、動く世界を感覚します。

動く世界を感覚するから、距離を感覚します。
距離を感覚するから、空間を感覚します。

記憶の中で、そのような次元を見るから、五つの次元に住むことになります。。

現れる瞬間は、極一瞬で過去に消え去り、
記憶をまさぐっているうちに、新しい瞬間の現れさえ、瞬間に記憶の中です。
今の現れに気づく前に、記憶の中にそれを見る始末です。
かくして、「わたし」は常に記憶に常駐する事になります

時間と空間の中に住んでいるというのは、記憶に住んでいるのです。
しかし、そこに住んでいるのは、観察している真実のわたしの意図です。

「真実のわたし」は、それを見たいのです。
そこに、真実の愛が投映されるドラマを見たいのです。
そのように夢をみていたいから、目覚めません。

真実のわたしが、わたしの物語を、「わたし」に体験させるのは、
苦悩と喜びの物語に、愛を循環し、愛を増幅したいからです。
そのような夢を見ているのです。

そうであるなら、いつかは必ず目覚めます。
ほんとうの自分に戻るその時は、訪れるのです。

そのまんまで、そのように運ばれているのだから、起こる事をそのまま受け入れて生きる、
それだけで、修行をしている事になるのです。
修行で、苦しい思いをするのと、人生で苦しい思いをするのと、どこも違いません。

大切なのは、悟りでも、気づきでもありません。
本当のわたし、真我が見ていたい夢を、体験する事です。
そのための「わたし」という主人公です。
真我は、とても大きな意味のある夢を見ているのです。
真我にとっても、「わたし」にとっても、大切な意味のある夢です。

ですから、「わたし」が、いくら目覚めたい、悟りたいと思っても、
なかなか、思うようには行きません。
夢を見ている真我のほうで、そろそろ目覚めてもいいかなって、ならないと、無理なんです。
それが、言ったら恩寵です。
目覚めてもいい「わたし」になったとき、目覚めは起こるのです。

それでも、「わたし」のほうから目覚めに働きかける手段もあるのです。
真我に近づいて行けばいいのです。

「わたし」の中の、光を遮る要素を洗い流し、純粋な天真な者となること。
「わたし」が記憶から自由になって、今に居ること。

それだけで、真我との距離感が縮まります。
悟らなくても、「わたし」が真我そのものの位置まで近づけるのです。
近ければ近いほど、真実の愛を、強く浴びられるのです。

ほんとうにそうなりたいのであれば、

自らの中に、僅かな欲の痕跡さえあってはいけません。
それだから、全てを明け渡す事が大切だと言う訳です。
過去に捉われて、過去に引きずり込まれていてはいけません。
それだから、今を感覚する事が大切だと言う訳です。

明け渡して、純粋な、透明な者になれば、なんと真実の愛はこんなにも溢れてきます。
過去に捉われず、今にあるなら、あらゆるものが自らの中にあったことに気づきます。
この身体も、あの椅子も、このマグカップも、あの雲も、あの青空も、月も、太陽も、
あの星々も、すべて自分です。
別れていない、自分そのものです。
自らの中に、展開されている「ひとつ」です。

それでも、わたしは言います。

悟りが大切なのではない。
この物語を、真摯に生きることが、まず、絶対的に必要なのです。
それが、みこころだからです。
まず、真我の、源泉の、神の、忠実な召使にならなければ、悟りなど無いのです。
自らを、神の道具として位置付けて、それを神に宣言してください。

これは宗教ではありません。
ごく普通の、自然現象を言っているだけです。

 

2012-05-18

 

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