わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】覚醒と悟りは同じ?

覚醒、あるいは目覚めと、悟りは同じものですか?ってよく聞かれます。

結構こういう質問は、したいけどしていいのかな?って迷うんですよね?きっと。
答えにくい質問はしないほうがいいかも・・・って思ってるのかも知れませんね。

で、目覚めと悟りは同じかと言えば、同じですって答える人は多いようです。

どうも釈然としません。
なんか違和感があります。

どちらも何かについての状態を言い表しているのですが、その何かがそれぞれ別のもののような気がします。

例えば、こういう質問もよく頂きます。
「悟ってしまえばもう、悩む事など無いのですか?」

この質問については、「はい。悟ってしまえばもう悩む事は何もありません」と答えられます。

別の言い方に変えてみます。
「目覚めてしまえばもう、悩む事などないのですか?」

こう聞かれたら、「目覚めても自我は悩みを味わう事はあるかも知れません」と答えます。

目覚めと悟りは、別の事を言っているような気がします。

目覚めの対象は、真我、あるいは源泉、あるいは神です。
もちろん真我は目覚めるのではなく、それは元々真我なわけです。
それは、始まった事があったのでは無く、終わる事があるのでも無く、・・・在るわけです。

それが、自我のレベルに波及して来る、あるいは自我のほうから真我のエッセンスを受け取る。
それが目覚めるという事、つまり、導通するという事です。

それは、例えようのない至福を伴って現れます。
なぜなら、真我そのものが愛だからです。

実は自我も本来は愛による仕組みなのです。
真我の愛、エッセンスによって、自我に愛の誘導共振が起こり、至福を感覚します。
それはもう、幸せそのものです。
神と共に在る幸せです。

悟りと言うのは、完全な理解の事です。
もちろん真我を理解するのも悟りです。

真我は既に、悟っています。というか真我に悟りは無用です。
悟っていなかったのは自我の「わたし」です。
「わたし」が真我を悟るためには、まず、「わたし」に真我の目覚めがない限り、完全な理解はありません。
「わたし」は、真我から波及される智慧(ちえ)によってそれを理解するからです。

その智慧によって、様々なわからなかった事、わかった方が好ましい事がわかって行きます。
つまり、知らなければいけない事は、知らされるのです。

この神聖な働きによって、多くの事を悟って行きます。
あらゆる事象の意味が逆である事を知って行きます。
つまり、従来の我々の思いや、理解は、倒錯であった事を知って行きます。

そうであるなら、悩みの理由も、意味も、それを消滅させる手段も、全部わかるわけです。
悟ったなら、もはや元々悩みなど存在しなかった事さえも知るのです。

悟りとは、明知の光(智慧)によって無明(無知)が理解で満たされ、無明が消え去る事です。

対して、覚醒とは、明知の光に照らされ、光を浴び、「わたし」が光輝く事です。
覚醒とは変容の事なのです。

ですから、まず覚醒があって、智慧によって悟り、悟りが進んで行く。
知り尽くす事で、本来、真我も自我も無く、ただ「在る」だけが在る、その「在る」であった事を悟り、二度と自我を形成しないなら、それは解脱と言われます。

別の言い方をするなら、悟るのは自我があっての故。
真我だけなら悟る必要も、また悟りさえ無いのです。

ですから、あなたは悟ったのですか?と聞かれても、元々悟りなどないのであるから答えようが無いのです。

また、「わたし」が有るから悟るのであれば、身体を持って生きている(と思い込んでいる)状態でないと出来そうもない。
だから、即身成仏が重要なのですよと言うわけです。

「わたしの物語」の最終章では、きっとそうなるのです。

このような覚醒、悟りは、段階を踏んで完成されるようです。
最初は極、ピンホールのような小さな導通孔が現れては消え、気づかずに完全に塞がれてしまうかも知れません。

表れては消える度に、なにか胸のあたりに感じるかも知れません。
それから何年か経て、再び孔が開いていくかも知れません。
孔の大きさに応じた愛と悟りを得て行くでしょう。

そして何かひとつ、あっ!とわかる事があるかと思います。
これが覚醒、悟りか?と思ってしまうかも知れません。
でも、それはほんの最初の出来事です。
3日後には、はたしてそれが覚醒、悟りであるかどうか自信さえ無くなっているでしょう。

そのような事を繰り返して、いつか導通孔は開いてしまいます。
我々がハートが開くと表現している事です。
あるいは、最初から一気に開いてしまう人もいるでしょう。
覚醒、悟りの成り方は人それぞれのようです。

最初の段階で慢心してしまえば、そこで孔は塞がれてしまうでしょう。
マインドに、自我にやられてしまうからです。
マーヤ(幻想)は、そのように働きます。

解脱に至るまで、つまり、自我が真我に溶け込んでしまい、もはや自我も真我もなく、「在る」だけになるまでが「わたしの物語」です。

それまでは、どのような覚醒の段階であろうが、悟りを得ようが、一進一退を繰り返して行きます。
そのような事を、悟後の修行と言うらしいです。

結局、覚醒、悟りと言っても、無明をさ迷っている状態となんら変わりありません。
自我を抱えているうちは、途上です。
もしも人の道にゴールがあるとすれば、それは「解脱」、つまり自我が完全に真我、源泉、神に溶け込んだ状態なのでしょう。
もはや、人として生まれてくる事はありません。

それがマインドが恐れる原因です。
それだから、マインドは執拗に「わたし」を自我に縛り付けようとするのです。
人がゴールに行き着くなら、「わたし」もマインドも自我も消え失せるからです。

 

2012-06-21

 

 

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