わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】わかる眼

忙しい日常を暮らしていると、自我の中に埋没してしまいます。
そうして物事に「決めつけ」を適用して物質世界を揺るぎ無いものにし、あるがままの自分を忘れてしまいます。

「決めつけ」は自由で柔軟な美しく流れる世界を物質化して行く接着剤のようなものです。
そのようなものを我々は代々受け継いで、他にも強制的に押し付け、相互洗脳の状態で「わかる眼」を塞いでしまいました。

第三の眼という言い方をします。
本当の自分を見たいのであれば、それを見る目は額や眉間には無い事を知ったほうがいい。
それは松果体が知覚するものでもなければ、前頭葉で判断されるものでもない。

身体に付いた眼では、身体のレベルのものしか見えない。
内なる眼、「わかる眼」で確かに捉えられるのを見てみるのです。

個々に分離し独立したそれらに、名称を与え、形として見るのは身体の眼にまかせておけばいい。
自我にしがみ付く事無く、ただ「わかる眼」で、真実の有り様を見るのです。

身体の眼で世界を見て、「わかる眼」で真実の有り様を、同時に見るのです。

それぞれが違うものを見ている事がわかるまで、見続けるのです。

「わかる眼」が、あるがままを見る時、そこには「見る」あるいは「わかる」だけが存在します。

純粋な「在る」の中に在る、「この在る」を知るでしょう。

こう言うと、何を言っているのか全然意味不明な人も多いかと思います。
それが伝えたい側のジレンマです。
他に言いようが見つからないのは、そのような次元での言葉を発明した人がいなかったから当然です。

全く思考が無い世界です。
そこに在る(居る)事は、楽しみです。

しがらみも、重大な事も、恐るべきものも、関係も、依存も、そこにはありません。
そこに漂う事は、大いなる楽しみです。

できるだけそこに居て、自我の囲いの中に入りたくは無いのです。

それだから、目覚めた人たちは、それぞれお気に入りの隠れ家に雲隠れしてしまうのです。
ヒマラヤやチベットの山中とか、森の中の小屋とか、人と関わる必要のない所で、誰にも邪魔されずにそれを楽しみたいのです。

自分を知るための出家ではなく、あるがままの自分で居るための出家です。
もう俗世間に楽しみを見出すという事が、できなくなります。
結局、隠遁してしまうわけです。

前にも言いました。
野たれ死にが、わたしの理想です。
って言うのは、誰にも看取られなくても、神に救い上げられる喜びの方を選んでいるからです。

既に、身体はわたしでは無いからです。
これは、作り物、借り物、そうであるから、打撲などしようものなら手で患部をさすりながら身体に謝ります。
大事にしてあげられなくて申し訳ないねって、まるで他人に謝るように謝ります。

変でしょう?
変なんです。

そういう変な理解の仕方が、実は間違ってなどいない理解だと思えてしまうんです。

そうして穏やかにいられる自分、謹んでいられる自分が、嬉しく思えるのです。

おそらく、人に言わせたら、偽善者呼ばわりでしょう。
自己満足と言われるでしょう。

そう言われても、全く反応する部分が無いのです。
感情に波紋が現れません。

それを見て人は更に言うでしょう。
「冷たい人」
「情の無い人」

情に流されて、冷静を失う事が、それほど大事なのでしょうか?
逆です。
真実は、いつだって真逆なのです。

人のそのような有り様を知り、わかり、真我とは、命とは、愛とは、慈悲とは、それらがわかってしまえば、もはや、何がどうであれ、喜びに満たされています。

神を忘れずに居て、いつだって片手をそれに触れていれば、日常で自我に埋没してしまう失態は少なくなります。
自分が自分で居られる喜びを失う事はありません。

ハートから溢れ出る真実の愛を、いつだって味わう事ができます。

これを多くの人に伝えられたら、どんなにいいだろうと思います。

しかし、わたしには指導する能力がありません。
他の方々のように、講演も、ワークショップも、リトリートもできません。
本を執筆しようにも、文才もありません。

でも、安心していられます。
他に覚醒された方々が多く活躍しておられます。
そういうのは、その方々にお任せして、わたしはあるがままのわたしを楽しむ事にします。

神をこのように実感できるのは、なんと素晴らしい事でしょう。
これが起こって、ほんとうによかった。
そしてみんなにもそれが起こって行く。

みんなが幸せになるなら、もっと幸せになって行くに違いない。
そうやって、世界そのものが、高みに昇って行くのでしょう。

アセンションとはそれを言ってるのでしょうか。

 

 

2012-06-22

 

 

shikoutoshi.hatenablog.jp