わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】記事・パンチャ・シーラ(五戒)への質問

前回の記事、パンチャ・シーラ(五戒)について、質問を頂きましたのでお答えします。
この記事については、何かしら質問が来るだろうなって、ある意味期待していたところもありました。
きっとみなさん、うんうん、どうなんだ?って頷いてアーナンダさんの核心を突いた質問を読まれたのでしょうね。


1.目覚めは恩寵として与えられるのに、
やはり、瞑想がその準備として適切であるのと同じように、
五戒もまたその準備として適切である、
という意味でしょうか?


恩寵、瞑想、五戒、これらは相互に関連がありますが、それぞれ全く別の事です。

恩寵は完全に明け渡した時に与えられる源泉からの愛であり、慈悲です。
五戒は恩寵を頂くためのものではなく、明け渡す状態に入るために必要です。
五戒によって思考想念のカルマを作る事を止め、またその浄化にも役立つという事です。
瞑想は気づく力を養うのに有効です。
元々その能力を有していて必要ない人もいれば、瞑想した方がより良い人もおられます。

それぞれ全く別の事が、相互に連携して目覚めへと導きます。


2.それから、お酒については、前々から疑問なのですが、
目覚めたといわれる方でも、お酒飲む人がいます。
これは、どう考えたらよいのでしょうか?


お酒が悪いわけじゃないのですよ。
でもお酒に引き寄せられる(求めてしまう)執着と、脳に対する現世的肉体的な作用を考慮したら、飲まないほうがいいと言う事です。
酒を飲んではいけませんというのは、あくまでも求道者、探究者の立場に対してであって、言ったら目覚めたら後は飲みたければ飲んでも構わない訳です。
しかしながら、目覚めた人がお酒に執着する事はありません。

そうであっても、(何かの集会とかで)状況を鑑み、そうするのが適切となるならば(場を波立てないためとか)飲むかも知れません。
また、酒をすすめられる事が、真実好意によるものであって、それに応える必要があるなら、そうするでしょう。
つまり執着しないからこそ飲む事もあるわけです。

仏陀は鍛冶工チュンダのもてなす毒キノコ料理を、そうと知っていながらあえて受け入れました。
小異を残し大同に就く(小異を捨ててではありません)という言葉がありますが、逆に仏陀は、どんな小さな供養にも、今出来る最大を傾けて応える人でした。
後に現れる大きな何かよりも、今必要な事を成すという人です。
チュンダのこのようなもてなしに、また供養に、命を懸けてまで応える潔い人でした。
このような仏陀を、敬愛せずにはおれません。

では、目覚めた人がひとりで家に居て酒を飲むか?と言われたら、それは飲まないでしょう。
ただ在るであるその人が、そのようなものを嗜好するとは思われません。
また、何もすることがないからと、お店に酒を飲みに行くという事もありません。

もしもあったとしたら?
う~む。
わたしには理解できません。
ぜひその方に、直接教えて頂くのがいいと思います。

むしろ目覚めた人は、飲食をむさぼらず、誰にも会う事の無い山中に隠遁したくなるものです。
神と共に在る事さえできれば、そうしたくなると思います。
既に生きる事を捨てているはずですから。
既に捨てて、生きているはずですから。


3.不○生戒(?の戒律)について
私は、蚊に刺されるとかゆくて仕方がないので、蚊は基本的に○しています。
花岡さんは、蚊にはどのように対処されていますか?


そのように生きるように課せられた命でも、神の現れですので、あえて血を供養する事もあります。
やっぱり可哀そうで潰せなくなります。そうなってしまうんです。
大きな蚊や、ある環境の蚊は、やはり危険ですので、息を吹きかけて飛んで行かせます。
夕方の外などは刺されないように衣類でガードします。
しかし、不思議な事に、昨年今年と全く蚊が寄ってきません。
個体数が減少しているせいなのか否かは不明です。

またある日、こういう事がありました。
花菖蒲の畑で作業していると、向こうからでかい黒い犬が大きく上下にバウンドするように走ってきました。
ずいぶん大きな犬だなあと思っていると、あっという間に50m先まで来ています。
そして、わたしを確認するなり、ピタッとそこに立ち止りこちらを見ています。
なんとそれは犬ではなく、熊だったのです。
まだ成獣には至らない小熊でしたが、それでも犬よりははるかに大きく、胸の白い三日月がはっきり見て取れました。
眼と眼が合った瞬間、わたしは「あっ!かわいい」って思ってしまいました。
でも熊は驚いてしまったようで、急いで来た方向に向きを変え、懸命に逃げて行きました。
全てを神に委ね、起こる事が起こるままに受け入れているわたしには、恐怖心が湧き起る事も無く、熊がかわいいとしか思えなかったのです。
熊は害獣でしょうか。
熊にとっての我々が、害人間なのです。
どうか人間に見つからずに生きていて欲しいと思ったものです。


4.また、アリやワラジムシが、木造の家・建物を食べて、
老朽化を早めていることがあります。
こういうときも、私は○虫剤を仕方なくまいてしまうことがありますが、
花岡さんならどうしますか?


幼虫成虫を掻きだし集め、離れた場所の木の切り株の傍とかに避難させた後に、○虫剤ではなく防虫剤を塗布すると思います。
ごめんなさいね、経験が無いものですから。
たぶん、そのようにすると思います。


5.農業をされていたら、虫の害というのが、必ずあると思うのですが、
どのようにしてそれを避けておられるのでしょうか?
(全く○さずに農業ができるのでしょうか?)


野菜を出荷するとか、お米を生産するとかの農業はしておりませんが、自家用の野菜は育てます。
全く薬品を使用しません。
おかげでキュウリもトマトもカボチャも茄子も白菜キャベツも、きれいなものはできません。
虫さえ食べることをしない危険な野菜を、なぜ人は好むのでしょうね。
虫が食べるという事は、安全ですよと証明しているようなものです。
もちろん市場には出せませんので、自家消費用です。
雑草を出さないよう耕し管理すれば、虫はあまり出てきません。


6.花岡さんは、ベジタリアンですか?
あるいは、乳製品・卵も摂らないビーガンですか?
私もベジタリアンになれたらいいなとは思うのですが、
現在のところ、肉や魚介類を食べたいと思うこともあり、ベジタリアンには成れていません。

また、一時、肉や魚をできるだけ食べないでいたら、
身体のエネルギーがなくなるような感じがして、あわてて肉を食べたことがありました。

瞑想だけしていられる生活ならば、ベジタリアンでも大丈夫だと思うのですが、
いわゆる日常生活(いろいろやらなくちゃいけない、ストレスに対処しなくちゃいけない)だと、
それではエネルギーが足りないような感じがしてしまいます。
(また、外食だとお店が非常に限定されてしまうという問題もあります。)

でも、そういう時期を乗り越えれば、ベジタリアンになれるのでしょうか?


肉食であろうが菜食主義であろうが、目覚めに対しては全く無関係です。
ベジタリアンになる必要がある人はそうするのでしょう。
わたしは肉も魚も卵も食べます。
何を食べるかで、こうなるああなると思い為し意味づけるなら、そのようになるでしょう。
例えば一切何も食べないでも生きられると思うなら、生きられるのです。
実際そのような人がおられ、体内でバクテリアなどがアミノ酸やら必須成分を供給しているようです。

また、畜産、漁業という生業(なりわい)が存在します。
人はそのように生きる事を許されました。
そうであるなら、そのような人々にとっては肉、魚を消費されないのなら生きていけません。
また、せっかく命を供養してくれた家畜、魚を、どうします?
有難く感謝して頂くなら、彼等の尊い供養が成就されると言う事なのです。
自然が食物連鎖によって成り立ち循環しているなら、そのように生きる事に何の不都合があるでしょうか?

「肉食が生臭なのではない。むさぼりが生臭なのである」と仏陀が申されました。

たしかに食物に加工されて行くそれらは可哀そうで、人間のエゴのようにも見えます。
しかし、あらゆる命に、お互いがお互いを捕食し、その事が結果的にお互いを存続せしめる環境調和の作用がある事を、わたしは理解しています。


7.他人に菜食の話をすると、「じゃあ、植物は○してもいいの?」「植物にだって意識があるんじゃない?」
といったようなことを言われたことがあったように思います。
植物を○すのは、○生にはあたらないのでしょうか?


植物にも命があり、意識もあり、それは全く神の愛によって表現されています。
上の6番でも言いましたように、この世界の命の成り立ちは、食物連鎖という循環があって成り立っています。
植物も動物も空を飛ぶものも水中を泳ぐものも、虫もアメーバも原虫もリケッチャも細菌もウィルスも、そういう摂理から切り離されません。

例えばトマトは若いうちは緑でまずく、食べないでくれと表明をしていますが、充分に熟れて食べるに適当となれば、真っ赤に色づきます。
この色は、「わたしを取って食べてください」という合図です。
赤く色づく事によって、取ってくれる誰かを誘っているのです。
そうする事によって、トマトはどこか離れた土地に種を落とせるのです。

野菜は食べられる事によって命を供養する事を拒んでいるでしょうか?
神のなされる事に間違いはありません。
それら命を無駄にする事、必要以上にむさぼり集める事、その事のほうが責められて然るべきかと思います。

食べてもいいのですよ。
食べてはいけないというのは個人の思い込みです。
殺生というのは、別の意味なんです。
興味本位、悪ふざけ、悪意、敵意、感情、欲望、そのような事で尊い命の使命を奪ってはいけないという事です。
また、どのような命にも、思い遣り、優しさ、慈悲をもって対する事が大切ですよって言う事です。
清らかで天心であるなら、人はそのようにするでしょう。
そのようでないなら、恩寵は届くはずが無いのです。

それと、その他の逸話についてですが。
公開するにふさわしい場面がある時には、公開したいと思います。

コメント、質問、ありがとうございました。

 

 

2012-11-10

 

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