わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】ほんとうの幸せは、神が与えてくれる

このブログタイトルは、「真我が目覚めるとき」としてみました。
しかし、目覚めの完全型、あるいは完成とかがどうであるのかは未だわかっていません。
それだから自分は目覚めた・・・と思い為し、自らにも他にも、わたしは目覚めたなどと主張する事はしません。

一連のブログ記事でわたしは、目覚めたとか、悟ったとか、一言も言及する事はしてはいません。
ただ、変容した、あるいは、わかった、と表現しているだけでです。

なぜなら、あいかわらず夢(世界の現実)は見続けているし、それを展開する自我を抱えています。

また、この変容に馴染んで行くにつれ、目覚めも悟りもどうでもよくなってきました。
更にバキバキに目覚めてやろうとか、何から何まで悟ってやろうなどと全く思いません。

そのような思い為しは、まったく自我が思いつく事である事を、わたしは知っています。

目覚めも悟りも、人のこしらえた言葉です。
最初に使った人は、その状態を表現しようとして、何かしら定義はしたのでしょう。
でもその言葉の意味に、わたしの状態が合致しているかどうかなど、わたしは知りません。

そうであるなら、わたしは目覚めた、悟ったなどと、どうして言ってのけられましょうか。

それでも、わたしは「これ」を知るに至りました。
神と、神の道具にされてしまう喜びと、完全にそれを受け入れられる安らぎと。
そして全く神の愛に包まれ、満たされている至福と。

もうそうなってしまうと、悟りなどどうでもよく、神を想うだけで幸せになるのです。

神はわたしの故郷であり、真実の父母であり、源泉であり、ほんとうはわたしはそれなのだと強く実感できるのです。

誰でも「わたしは幸せか?」と自分に問う機会があるでしょう。
そのとき、「幸せってなに?」と、たぶんその曖昧な言葉に、糠に釘を差すような掴みどころの無いものを感じるかも知れません。

多くの人の幸せとは、所有に根差しているからです。
新発売のi-podを一番乗りで手に入れたとか、探し求めた初版本をやっと手に入れたとか、集めたコレクションを眺めているひと時とか、趣味のガーデニングを楽しんでいる時とか、彼女ができたとか。

でもそれは、箒でゴミを払うように、いつしか色あせて、興味を示さなくなってしまう事でしょう。
人の幸せとは、飽きるものなのです。

所有という意味づけによる幸せは、絶えず、次なる所有欲を掻き立てます。
彼女に友人を紹介された彼は、新たな所有欲に燃えるのです。(ごめんなさいね、自分で書いていてとても不快になりました。でもこういう事があったりするのです)

それはやはり、「真実の幸せ」を知るに至ってないからなのでしょう。

真実の幸せは、意味も条件も必要ではありません。
ただ、幸せなのです。

この湧き起る「在る」という「これ」が、この感覚、感触が、・・・あらゆる存在の根源である「在る」と不二であり、一体である事を疑う事が不可能になった時、もはや究極の幸せに浸る以外に無くなるのです。

この喜ばしい事実を、この聖なる導通を、知らないうちはわからない事です。

幸せだなんて思った事がない・・・と言う方々に、どうしてもこの事をわかって欲しいのです。

目覚めも悟りも、どうだっていいのですが、この神との一体感による「幸せ」を、味わってほしいのです。
そうするなら、現世の所有による幸せなど、無色透明になってしまいます。

それだから言っているのです。

あなたの自我の操りに気づきなさい。
自我に現れる物質世界は、投映されたものであって実体ではありません。
代々引き継がれた言葉、それによる思考が、刷り込まれた価値観が、眼に見える世界に連れ込みます。

うちなる真実の「在る」に触れなさい。
ハートに光を呼び込みなさい。
その聖なる場所の向こう側が、それです。
導通するのです。

悟りも目覚めもどうでもいい。
わかる事が必要なのであれば、わかってしまいます。

意識を、移してやるだけです。
アートマンブラフマンの合一です。

ただ、言葉、思考、想念を、なだめておとなしくさせてください。

ここで、それが起こります。
あなたが座っているそこで、それが起こります。

できます!

誰かに出来た事なら、あなたにも、誰にも出来るのです。

 

 

2012-11-14

 

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