わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】「わたし」についての洞察

現実世界のあらゆるものが、内なる真我によって現れ来ています。
我々はマーヤ(幻想作用)によって自我意識を展開し、そこに世界を見ています。

見ているから、見ている主体の「わたし」を思うのです。
見ているから、見られている客体の「彼」というものを分離させるのです。

ほんとうは「わたし」などは、マーヤそのものであり、展開される世界全てが「わたし」です。

それだから、「彼はわたしだ」と言うのです。

外に向けてのあらゆるものが、「わたし」です。

しかし、内なる真我を感覚するとき、それも「わたしの起源」です。
全てがそこから現れ来るからです。

しかし、「わたし」が在る以上、自我意識の中に在るのであって、そこから内側には帰れません。
内側には「わたしの起源」は在っても「わたし」というものが無いからです。

「わたし」とは、あくまでもこの世界限定の観念なのです。

そうであるなら、「わたし」がある状態では真我に気づけないと言う事になります。

それだから、「わたし」を放棄しなさいと言うのです。

実験的に、「わたし」という言語を使わない訓練、「わたし」という思いを起こさない訓練をするならば、彼が誰であるか、彼女が誰であるか、あの物体は何であるか、という事が、なんとなく断定がぼやけていく事に気づきませんか?

それはとても気持ち悪い体験かも知れません。
恐れも抱くかも知れません。

なぜなら、「わたし」という思いこそが、この世界に生存するための拠り所、支えだからです。
「わたしは」「わたしが」「わたしに」「わたしを」そういう主語をまず置くから、戦えるのです。

社会という現実と戦うには、「わたし」は無ければなりません。
そして、「わたし」という主語の後に、意思や感情や行動が起こり、「わたし」という主人公が活躍して行きます。

たとえ認知症になったとしても、この「わたし」を手放せる人はいません。
そのようにして「わたし」という自我の中に、いつまでも住む事になります。

それほど幻影に打ち勝つ事は困難なのです。

それだから全てを手放し、全てを任せ、真我に服従するしか幻影を乗り越える事はできないのです。

真我に通じない事には、真なるものに浸れません。

真なるものとは、もちろん言葉には表現できません。
しかし、感覚的に知覚できるのです。

その知覚できるものが、愛であり慈悲であり、至福であるわけですが、定義は人それぞれです。
わたしが言うそれと、みなさんが思うそれは違うかも知れません。
体験するしか、その味わいは判りません。

しかしこれだけは言えます。

それはとても素晴らしい。
今まで知り得たものの中で、最も価値がある。
これを知るなら、この世で享受できる何ものよりも得難い価値がある。

誰でもが今これを知る事はできないでしょう。
それは、この世界がマーヤの世界であるとしても、そのように展開される作用がある以上、意味があっての存在だからです。
意味があるから、それは体験しなければなりません。
体験すべき立場にある人は、必要な輪廻を巡るでしょう。

それだから、数えきれないほどの輪廻を体験し、未だ「わたし」を創り、現実という夢の中を楽しんでいるのです。
間違ってはいません。
悟りはまず置いといて、人生物語を楽しんでいるだけです。

もちろん楽しみとは言えず、苦しんでいる人もいます。

なぜ苦しみの人生にあるのか?

「わたし」を手放し、全てを真我に任せ切るには、苦しみが必要だからです。
最終段階に近づいた人こそ、苦しい今を生きているのかも知れません。

気力や思いや努力で「わたし」を明け渡す事は困難を極めます。

苦しむのは嫌だ!という人は、楽しむ事をまだ期待しているのです。
そういう人はいずれ、再び楽しみを手にするでしょう。
そうやって、次の苦しみのチャンスまで待つのです。

しかし、もう参りました!苦しみであっても受け入れます!という人は、全てを投げ出し真我に服従するのです。
その御業、御心、与えられた全てをあるがまま、そのまま受け入れるという事が、明け渡し、任せ、服従する事です。

そうなってしまえば、どこに苦しみなど有りましょうか。
受け入れた以上、すべて真我がやってくれるのですから。

そうなってしまえば、どうにかしようという「わたし」など、どこにもありません。
全くお任せして、楽な生き方にシフトするのです。

全く「他力」は正しかったのです。

覚醒とは、真我と自我の境界が開き、「ただ在る」が交流する事です。
通じる事です。
導通するのです。

そうして、自我意識には、今生を最後に、もはや世界を創り出す事が無くなります。

安らぎの世界、満たされた世界、真我の世界、在るの世界に、ただ在り、そして、在るそのものになるのです。

そうであっても、自我が体験し、得たものは消える事がありません。
なぜって、そのために自我意識を創り、体験してきたのですから。
それはとても尊いのです。
意味があっての生まれ、生きる体験です。
消え去らねばならない理由などありません。
それは真我にとっての糧であり、真我は豊かに成長し続けるのです。
生まれ生きるのは、真我の活動なのです。

それだから、恐れなど何ひとつ思う必要がありません。
大丈夫です。
無にはなりません。
在るです。
無に帰るのではありません。

ゼロ? ではありません!

大いなる1です!唯一です!

無というのは、この世界を基準にした錯覚であり、思い込みです。

在る!なんです。

神はそのように、自らの名をヤハウエと告げられました。

 

 

2012-11-21

 

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