わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】神のお供をして

人は誰であろうと、ついには神を知る。受け入れるなら、そうなる。


あるがまま、一切を、そのあるがまま受け入れて、わたしという意識を、その意識を現し来る基にお返しするだけでいい。

神はそこにいらっしゃる。

難しく考える事はないのです。

現れの一切は、現す何かによって現されている。
それは、疑いようが無い。
なぜなら、現れているからです。

愚にもつかないようなこの言い方は、理解されないかも知れません。
しかし、この真実を言葉に現すなら、どのように言おうが、正しく言い表わせはしないのです。

ただ、それがわかる瞬間が出現する事がある。
あ!そうだよね!・・・
そのような理解のしかたに、そのような感性に頼るしかないのかも知れません。

気づきのほとんどは、言葉に言い表わす事ができません。
実に不思議なものなのです。
不慣れなうちは、実に不思議です。

一切を神にお返しする。
そのうえで、与えられるものだけを、有難く頂く。
感謝して、それを受け入れる。

それがたとえ、この身体の死であろうが、大切な誰かとの別れであろうが、わたしの完全な滅亡であろうが、受け入れる。
その瞬間に意識不明に陥ろうが、恐れる事無く、その事を受け入れる。

そうだ!わたしは受け入れられる、という確信に満たされ、真実そのようにした時、すごい事が起こる。

お返しした一切が、浄化されていく。

一切の穢れ、汚れ、欲も、罪も、神が引き受けてくれる。

カルマと呼ばれる思い込みさえ、神が引き受けて消し去ってくれる。

いさぎよく、お返しするだけでいい。

それだけで、恩寵が頂ける。
頂けないのは、返しきっていないから、受け入れきっていないからです。
その頂けない事さえ、受け入れなければなりません。

全てが神によって為されている。

この真実に到達できるのです。

それは誰かが言った事をイメージして作りあげるそれではなく、真実それが完全にわかるのです。

つまり、神の中に居る事ができるのです。

誰でもこれを知るなら、今のわたしがそうであるように、全身の隅から隅まで精妙な振動を感覚し、この喜びの故に止めどもなく涙が溢れてくるでしょう。

わからぬうちは、形としてイメージとして神を見ようとするかも知れません。
わかってしまえば、形もイメージもどうでもよくて、ただ、その中に居る至福を伴った感覚に泣けるのです。

後は。
いや、たとえそれがわからないままでもいい。

残りの人生を、神と共に生きればいい。

神のお供をして、進めばいい。

見失わないように、彼に完全にまかせきって、お供をして歩けばいい。

どうです?悪い事などできようがありませんよね?
この縛りは、とても心地よい。

時々、神のお供ができているか?・・・それを観察しながら。

時折彼は、振り向いてあのまなざしで、ねぎらってくれる。

その時の溢れる愛。
尊い慈悲。

今まで、全く知る事がなかった、このような喜びを。

このような素晴らしい真実がある事を。

誰にも伝えてあげられない。

それがどんなにか、残念な事か。

ちからの無いわたしが、どんなに残念な事か。

しかし、それさえも、わたしは受け入れる。

神のお供をして歩く、この喜びを頂けたのだから、受け入れない理由などない。

願わくば、わたしに現れ来るこの喜び、この波動が、あまねく宇宙に伝わりますように。
可能な限り、わたしが誰にも気づかれる事のないように。
なんであれ、間違いのない神に願うのは、彼を否定する事ではあるけれど、どうしても、神には申し訳のない事であるけれど。
そう願ってしまう。

全てが神だ。

神を知るなら、誰の中にも神を見る事ができる。

見るもの全て、行く所どこでも。
神で満ちている。

神のお供をして歩けば、神でないものなど、どこにもない。

どうかこの素晴らしい真実に、誰もが出会えますように。

そして。

ああ、苦悩を生きている方々。
とても、とても、ご苦労様な事です。
かつてのわたしが、そうであったから、その辛さはほんとうにわかります。

必ずや、果報が得られます。
その辛い現実が、必ずや、報いられます。

それは、ほんとうに、そうなります。

 

2013-04-27

 

過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。