わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】他人の記憶・過去世の記憶

仏陀は悟りに至り、自らの多くの過去世を思い出したと言います。

また、彼の弟子の中にも同じように過去世を思い出した人が数多く出たと言います。

そこで仏教では輪廻という概念が取り入れられている訳ですが、それが何故か前世の因果により六道を転生すると言う、「なにかのせいでこうなった」みたいな事が言われています。
今生、悪い行いをすると畜生道に堕ちて、動物として転生するみたいな事です。

ほんとうに仏陀がそんな事、言ったのでしょうか。

小学校とかで先生が、いたずらな児童を叱りつけるような、幼稚な、脅迫じみた理論ではないでしょうか。

そして近代、「わたしは仏陀の生まれ変わりだ」と、おっしゃる方が、それはもう何十人も現れました。

不思議な事です。
あきれてものも言えません。

そもそも、前世の記憶など、なんの役にも立ちません。

さて、その前世の記憶。

我々は思考が創り出した実体の無い時間という観念に縛られて、それによって歴史を教えられ、過去を基準に物事を考えます。
そうであるから我々は、前世というのは、その時間軸に沿った歴史的時間的過去の事実として捉えてはいないでしょうか。

だから、過去世とは、自分がこの世界の一連の時代のどこかに何度か生を受けたのだと思い込んでいるはずです。

わたしもそうでした。

過去世の記憶が蘇る事が、悟りを証しするかのように考えて、輪廻というものに、時間的歴史的連続的過去を適用しようとしていたから、わからなかったのです。

そのような我々は、名の売れた霊能者が、「あなたの過去世は、中世の貴族で女性として召使にかしづかれて暮らしていました」などと言われると、なにか納得して、そうなんだぁ、みたいに思ってしまう事でしょう。

ところが、この世界、この今生、我々が我々の意識の中に、我々の物語として生み出している実体の無い幻の世界です。
そこに、生を超えた、連続した時というものは、無いのです。

つまり、この生の歴史も時間も、この生にしか無いという事です。

あなたが次に生まれ変わるとしたら、全く別の世界、別の歴史、それも一緒に創り出して生まれてくるのです。

退行催眠という誘導操作によって、思考が作る前世を見る事が可能です。
しかし、催眠暗示は、犬になれと言えば、犬にもなれるのです。
石になれと言えば、石にさえなれるのです。

時代は、生を超えて、引き継がれる事はありません。
たとえ、過去世に於いて、江戸時代や中生に生まれたのが事実であったとしてもです。

あなたがこの時代に生まれたのではなく、あなたの中に歴史が創り出されているのです。

あらゆる二元が、クリアされ、まったく新しくあなたの意識に創造されて生まれてくるから、誰もが前世の記憶など無く生まれてきます。

しかし、意識下のどこかに過去世の欠片が残されているという事はあるかも知れません。

わたしは今まで幾つかの、「他人の記憶」が何度も現れ、理解できないでおりました。
それは、何かに熱中している時、外世界の雑音に気を取られる事の無い時、車の運転中、包丁を研いでいる時、思考のノイズが現れにくい時に起こります。

頻繁に、場合によっては、日に何度も現れて来る事もあります。

この記憶は、今生経験した記憶ではなく、かと言って、何百年、何千年の過去のものでも無く、時代考証をしてみれば、どれも今とさほど変わらない時代の記憶なのです。

今までは、誰かの記憶に影響されているのだろうと思っていましたが、そうではなく、意識下にあるそのような欠片を拾ってしまう現象のようです。

それはいつでも、郷愁のような、切ない懐かしさを伴って現れてきます。
これが過去世の記憶であるかどか、定かではありません。

しかしこれも、思考の働きであって、ただ単に現れて来るだけの事。
何の意味もありません。
夢の中で幻を見るようなものです。

また、現れてくる記憶も、気づきや悟りや覚醒などとは縁もゆかりも無いような、どうでもいいものです。

今、新しい人生を生きているという事は、過去世に於いて完成に至る事が出来なかったという事です。

しかし我々は、過去世に於いて、人の完成というものに、少しばかりは近づけているのです。
その成果は、やはり悲しみや苦しみが伴うものだったに違いありません。
平和に気づけない程に平和で、それ以外無い人生からは、気づきは起こりようがないからです。

今生だけでも、その意味を知り尽くす事ができないのに、過去世を思い出してその重荷を拾い上げる必要がどこにあるでしょう。

必要が無いから、捨てて来たのです。

今生で、昨日や一昨日、あるいは先月、去年、何年前の、苦々しい記憶に拘り続けているのに、前世、過去世のそのようなものを、わざわざ思い出す必要はありません。

この「今」に生きるために、過去に戻ってはいけないと言っているのに、どうして過去世が必要なのでしょう。

過去への憧れは、気づきを後退させます。

あるいは、人によっては過去に学んで、今をより良く生きようと言う人がおられるでしょう。
それはより良く生きていない人の言い分であって、ならば「今」、より良く生きればいいのです。
「今」それを発心しないでどうします。
なぜ、過去に頼ろうとするのでしょう。
過去に頼ってそれが出来るのであれば、過去に於いて既にしていたはずです。

「今」なのです。

「今」が、輝いているのです。

過去世は、言ったら、失敗作です。
(と言ったら、言い過ぎですね。過去もそれはそれで、必要であったし、必要な人生を生きたのであって、間違ってなどいないのですから)

今生は、誰にとっても、やり直しの人生なのです。

「今」この輝ける「今」に目覚めるのです。
希望とか夢とか、心はずませる言葉で未来を想像するのではなく、つまり誤魔化しの納得ではなく、この「今」に、必然として現れている「今」に、その意味を見出さなければいけません。

真実現れているのは、この「今」だけだからです。

過去や未来に自己の想いを馳せるのは、「今」から逃避する事ではないでしょうか。

受け止め、受け入れて、その貴重な価値を見出す事が必要ではないでしょうか。

過去形、未来想像形で、自分の生きる目的をあやふやにするのは、ナンセンスです。

「今」に目覚めてください。

思考や妄想、倒錯で、「今」を覆わないでください。
「今」に在るみこころを汲み取り、神を、あなたの真我を、いや我々の真我を、悟るのです。

思考、エゴを、知り、それに邪魔されず、真実の愛、真実の慈悲、感謝する喜びを与えられてください。

うやうやしく呼ばれる名前を、自らの過去世と言ってのける人に気を付けるべきです。

 

 

2013-12-06

 

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