わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】年の初めの挨拶

新年となりました。


と言っても、いつだって「今」ではありますが、区切りを置いて物語を眺め、間違いなど無い事を検証してみるのもいいかも知れません。


これは、まあひとつの恒例行事ですから歌にも歌われます。


「年の初めの例(ためし)とて、終わりなき世のめでたさを」


世界に終わりなど無く、それはめでたい。

始まりなど無いから、終わりなどあるはずが無い。

当たり前の事だから、当たり前である事がめでたいのです。


みなさまにおかれましては、この「今」から先の「今」が、幸い多い「今」でありますよう、祈願申し上げます。


昨年は、読者さまからの喜ばしいコメントをたくさん頂きました。

返信もおろそかになり、申し訳なく思います。


みなさまのコメントが、また他の方の気づきの手助けにもなって行きます。

ですから、わたしのものぐさを容赦頂き、これからも宜しくお願い致します。


わたしも未だに変化、成長の過程の中です。

未完成であり、未完成である事が、完成への道を歩める事の喜び、楽しさを思い起こさせてもくれます。


まだまだ、学びシロがある。

まだまだ、楽しめる。

そう思えるのです。


神から離れ日常に浸かっていても、いつだってここに帰れる。

ここに帰れる事の喜びを、毎日、何度でも味わえる。


だから日常が怖くない。

日常にあっても自由でいられる。


難儀な事は、たくさんあるけれど、それらから自由でいられて、難儀を楽しめる。


神がわかる事、真実の自己がわかる事は、そのように生き方が楽になるのです。


凝りをほぐすように、それが何でもない、単純な事だったと、きっとみなさんにもわかるはずです。

今年が、そういう年でありますように。


毎日、日常に遊びに出て、毎日、ここに帰ってくる。


ただいま、神さま。

ただいま、自分。


そのように、帰ってくればいい。


帰ってきさえすれば、安らぎがそこにある。

新たな生命力が与えられる。


そうであるなら、恐れうろたえる事など、何もない。


それがわかる年になりますように。

そのように祈願致します。


分け与える力など持たない、このわたしに出来るたったひとつの事が、この祈願です。


今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

 

2014-01-01

 

過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。