わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

あの日の夜 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎久々に(約2年10か月ぶり!)Sさんという方から送っていただいた記事を掲載します。Sさん、ありがとうございました。

*Hさんからいただいた同記事のコメント欄でのやりとりを付け加えておいた。(2019-05-02記)

 

あの日の夜

 

断じて言います。
わたしは今日まで、悟りを得たい、開きたいなどと、一度も思った事はありません。
これは嘘偽りなく、そのとおりであって、覚醒などという言葉さえ知りませんでした。

ただ、仏教界においては「悟り」というものがあり、それはゴータマ仏陀によってもたらされた思想なのだと言う事は、何かの媒体を介して耳に届いておりました。

それでも悟りなどというものは、自分には関係のない、神話のようなフィクションであり、この現実世界ではあり得ない事だと思っていました。

わたしの人生は、幼い時から苦悩に満ちていました。
毎日が精神的な攻撃の中にあり、他者と比べては自分の惨めな立場を嘆いていました。

周りと比べて、自分はどうだからこのような格差が生じているのだろう。
どう考えても人格、人間性に於いて、他者より劣っているとは思えない。
自分が他者より、より悪であるという根拠も見つけられない。

攻撃する事も無く、蔑視する事もなく、弱い命たちに悲哀を想い、確かな思い遣りさえ持っているのに、なぜこうも苦しい立場に置かれているのだろうと、神さえ呪う事もありました。
人も社会も恐れるようになりました。

ところが苦痛も続けばやがて慣れてくるものです。
そのような人生を歩いていると、苦痛に麻痺してきて、忘れている事さえあります。

ちょうど忘れた頃に、もっと破壊力のある爆弾が落ちてきます。
そのような繰り返しの中で、「何故なんだ?どうしてこうなるんだ?」と、自問する毎日でした

内に目を向ける訓練が、自然になされていたのです。
禅も定も瞑想も知らないのに、周囲から離れ、独り内側に向うという事をやっていたのです。
他人からば自閉のように見えたかも知れません。

そのように、周囲がしてくれていたのです。
神の導きであり、みこころがそうしてくれていたのだと今は理解しています。

それがなかったら、このような「今」に辿り着く事などできなかったでしょう。

そうして年月を経て。

あの人生最大の困窮に陥ります。

その時までに、いろんな苦悩を経て、全ては求めても得られない事ばかりだと言うことを知っていました。
また得られたものに、それほどの価値など無いのだとも知っていました。

言ったら、諦める覚悟、手放す覚悟は既に出来ていたのです。
数えきれない程の苦悩が、そのようにしてくれたのです。

人生最大の困窮に陥り。

数日後の夜、わたしは打ちひしがれ、ふらふらと庭に出てたたずみ、深く深く内側の奥底を覗いていました。

万策尽きたわたしは、「もう捨ててしまおう。何とかしようという思いを離れ、そのように流している何かがあるのなら、流れに任せよう」
そのように思い、諦める事を選択したのです。

あたりは真っ暗で、静まり返り、夜とわたしだけがそこにありました。

その時、周囲の雰囲気に異変を感じました。
周りの波動が明らかに変わり、そして背後から近づく幾つかの存在を感じたのです。

地面から浮かび、スーッと近づく、何か精霊のようなものを背中が捉えていました。
十体か、二十体、いや、それ以上の存在が近づき、一瞬わたしに「恐怖」という言葉が浮かびましたが、すぐに「あらゆるものを捨てた今、恐怖を掴んでいるはずが無い」と、冷静でいられました。

そして近づいて、彼らは言ったのです。
「大丈夫だ。何も心配はいらない。我々はそのように運ぶ。あなたを見捨てたりはしない」

それは言葉として頭脳が翻訳はしたものの、言葉とは全く違う、感覚の伝搬によって自分の内側が理解したのです。
ただ言語化する習慣が、言葉に翻訳したのです。

「ああ、大丈夫だ。任せ切って大丈夫なんだ」と、その時、完全に確信を得たのです。

次の日から自分の中の価値観はまるっきり変わり、世界の見え方、受け取り方、初めて見る世界のように、不思議な感覚がしました。

眼で見ることをせずに、胸の内側で見ているような、「わたし」の置き所が頭では無く、このハートの中に置かれた感覚です。
そうして、はっきりと、このハートの存在感を感じていました。

今わたしは、あらゆる現実から自由になった。
何にも捉われる事無く、思い悩む事無く、思考想念によって頭に引き戻される事も無くなった。

自由だ。解放された。縛り付けるあらゆるものから解き放された、と、感じたのです。

それからはもう、このハートからコンコンと溢れる泉のように喜び、至福が流れだし、それによって心は満たされ、ただつぶやいていました。
「神よ。神よ。神よ・・・」

それは、ただただ感謝の想いであり、言葉にしようと思えばそれしか出てきません。

同時にその至福は、この愛、理由など無い愛、条件など無い愛、ただ愛である愛、それによるのだとわかってしまいました。

なんと、あらゆるものが愛だ。
自分も、誰も、現す根本も、見えてる世界も、愛によって現れ、見せられているとわかったのです。

愛は神なり、全ては神なり、そして、わたしは・・・それだ。

そうして、しばらくそこに寛いでいました。

変容は、求めようが求めまいが起こる。
拒否しようが、起こる。
全く、恩寵によってそれは起こる。
準備ができさえすれば、だれにでも起こってしまう。

あらゆる前世も、今生も、後の世も、実はそれに向かって「わたし」を運んでいる。
それであれば、神を信頼できない理由など何一つない。
任せ切って、全く大丈夫だ。
「わたし」と思わせる自我を離れ、ただひたすら、神の中に居続けよう。

そう思ったのです。

そして今、相変わらず貧乏してますが、とても満たされ、幸せです。
かつて欲しかったものが、まったく欲しくはありません。
自我が望む何をも、まったく欲しいとは思いません。

手放しきっているだろうか。
神を、みこころを、受け入れきっているだろうか。
状態を時折確認し、満足しています。

悟ろうと思っていたのでは、悟れません。
それは自我の思いでしかありません。

恩寵は、だれにでも起こるのです。
これは疑いようの無い事実です。

準備を

始めましょう。

 

2012-09-29

 

 

[読者YA] 花岡さん

どうもありがとうございます。 

今この瞬間からリセットして 
再び赤子のように両手を開こうと 
思いました。 

更なるご多幸を心よりお祈りしています。
 
 
 
 
【読者MMM】不躾な質問ですが

花岡さん、いつも記事ありがとうございます。 
不躾な質問になるかとは思いますが、もしよろしければ教えてください。 

覚醒された前と後では、大事な人との距離感はどのように変わったのでしょうか?(もしくは変わらなかったのでしょうか) 
例えば、奥さまやお母様、ご友人との関係に対する花岡さんの気持ちや印象です。 

私は、妻や母、友人など大切な人と思える方々がいます。 
「ワンネス」という意識になれば、誰もが自分とおなじと思えるようになるのであれば、現在大切に思っている人たちが、「one of them」になってしまうのではないかという「恐れ」が、私の中にあります。 
今の私が私でないものに変わるのではないか(大切に思っていることがそうではないと思うようになる)という怖さです。 

実は、先日、花岡さんのブログの「エピソード3」に書かれているクンダリーニ覚醒と似たようなことが起こりました。 
怖くなって、祈りを唱えると、私も胸のあたりまで昇って、その感覚は消えました(みぞおちと胸の熱さは3日ぐらい続きました)が、その怖さは「私が私でなくなるかも」という怖さでした。 

覚醒するということに対しても、その瞬間がもし来ても、自らの変化に恐れてしまいだろうという思い(未知への恐怖)、「明け渡し」ということがいかに難しいかがわかったように思いました。 

前後の変化は、ご経験された方へお伺いしないとわからないと思い、不躾とは思いましたが、質問させていただきました。 
ご寛恕ください。 

 

 

 

【花岡】 MMMさん

いつもコメント、ありがとうございます。 

面白そうなテーマなので、本記事に載せますね。 

これからも、よろしくお願い致します。 

 

*この読者MMMさんの質問への回答は以下の記事に載せられている。

shikoutoshi.hatenablog.jp

 

 

[読者S]

はじめまして、Sと申します。 

こちらのブログに、感謝の気持ちでいっぱいです。 

「大丈夫だ。何も心配はいらない。我々はそのように運ぶ。あなたを見捨てたりはしない」 

この言葉は、私にとって、背中を押してくれるものとなりました。 

私も明け渡し、委ねようと思います。 

とても素晴らしいブログに出会えました。 

ありがとうございました。 



*この記事は、以下の記事で描かれたことをより詳しく述べている。参照していただきたい:

shikoutoshi.hatenablog.jp

また、同記事は、下記のエピソード集の一部にもなっている:

shikoutoshi.hatenablog.jp

(2019-05-30記 ブログ管理人より)