わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

「わたし」が消える実験 (1) 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。

以降、3つの記事は同一のテーマ「「わたし」が消える実験」に関するものなので、同一のタイトル名のもとに(1)、(2)、(3)とシリーズ番号を付しました。

 

「わたし」が消える実験

 

全てがわたし、あるいは全てはひとつだというワンネス感覚。
実は、たいして重要ではありません。

焦らずとも、わかるときにはわかるんです。
また、わかっても、ただそうであるだけで、どうという事はありません。
ワンネス感覚を体験しなくても、まったく問題ありません。

それでもワンネス体験をしてみたいという人はいるようです。

「わたし」とか「あなた」とかいう個の感覚があるから、世界はまるごとの世界ではなく、分離しているのです。

そういう訳で、この現象世界で「わたしを消してみる」、ささやかな実験をしてみましょう。
「わたしが消えたら」世界の一々を分離する者がなくなるから、世界は全部ひとつという感覚を味わえるかも知れません。

日常会話で、あるいは考え事をしている時、主語を一切使わず過ごしてみるのはどうでしょうか。

「わたし」という言葉を使わない。
「あなた」という言葉も使わない。
どうであれ、人を指す言葉や対象を指す言葉を一切使わない。
固有名詞をなるべく使わない。

どうでしょうか。

わたしもあなたも、彼等もあいつらも、猫も犬も、いなくなります。
佐藤さん、とか、田中さんとか、呼びかけてもだめです。
「えっと・・・」とか「あのぉ~」とかで代用してみるのです。

「おれ、はらへっちゃったよぉ~」とか言わず、その空腹の状態を、ただ感じる。
誰がはらへったのかは思わずに、状態に気づいている。

名前を想うから、分離する。
固有を想うから、分離する。

雨が降ってきたら、ただ降ってきた事に気づく。
日差しが暑かったら、暑い事に気づいている。

コンビニへ行ってジュースを買う時も、コンビニも思わず、ジュースも思わず、レジもお金も思わず、気づいているだけで一連の作業を終結させる。

つまり、渇きを潤すものが置いてある場所に行き、それを取り、並んで、対価を差出し、白い小さな印刷物を受け取って帰る。

ただの実験ですので、これによる徳など期待しないでください。
でも、住環境に溶け込んでしまう感覚、分離の垣根が消える感覚、あらゆるものが身近になった感覚、どれもこれも意識で繋がっているような感覚を味わえると思います。

「わたしは」「わたしの」「わたしと」「わたしに」そのようなものがまず言葉の最初に出ないと、次の言葉が出にくいものです。

誰かが自分のマグカップを持って行こうとするとき、「それ、わたしのよ!」と言わない。
代替語をすぐに選ぶのは結構しんどいかも知れませんが、人間関係が危うくならない程度に試してみてください。

「わたし」が無い状態。
それをまず、言葉や思考を利用して疑似体験してみるのは面白い事です。
不思議な感覚を味わえるでしょう。

それほどに我々は「わたし」を主張している事に気づきます。

次第に何をする、という強制された目的、意味、そんなものさえ思考せずに、ただやってのけられるようになるかも知れません。
「めんどくさいけど、やんなきゃなぁ~」とかいつも考えてしまう事を、ただ、難なくやってのけられるようになるかも知れません。
性格上出来なかった片付けや、掃除や、そんなものもこなせるようになるかも知れません。

しかし、「わたしの無い恐怖」をお持ちの方は、この実験は怖すぎて辛いでしょうから、お奨めはできません。

さて、SSさんのコメントに、エゴの捉え方についての記述があり、はっ!としました。


> 今まで私は「エゴ」とは、自分とは別に存在する「悪い何か」だと勘違いしていました。よく精神世界でインナーチャイルドとか深層意識とか言いますが、そういったものの一部で「自分の中にある至らない部分」だと思っていたんです。 

だから散々「こんな自我死ね、エゴ死ね」と、やっていました。 
…それって、実は壮大な自己嫌悪だったんですね。 

元々自己嫌悪が酷い私が「自我死ね」なんてやったら益々自己嫌悪が深まります。 
そうではなく、自分自身を客観視して「このような自分もいるな」というふうに見たらいいし、結局は「起こる事が起こる」のだから、全て実在

の意志、どんな「私」であっても、実在がそのようにしたのだから全て意味があるのだと思って、どんなエゴも許し愛したらいいんだ…、と、今

このブログを読んで気づいたので、コメントさせて頂いた次第です。 


そうか、みんな勘違いしているかも知れない。
と思いました。

わたしがエゴという言葉の意味に言及していなかったから、他の方も自分なりの使い方に準じて意味を反映していたかも知れません。

日本では「エゴイスト」という言葉が「自分勝手」「利己主義者」「自分さえよければ他は関係ない人」という使われ方をします。
エゴイストとは確かに、よくない自分の要素を言っているのではあるでしょうが、エゴはエゴイストの事では無く、自分に関する全てのコア(核)の意味で使っています。

自分と言うその自分の部分、つまり「わたし」であり、「わたし」を主張する者であり、「わたし」という思考を発するものであり、またその思考そのものであり、自分の主体と捉えているものであり、意思・行動・判断・そのようなものを統率するセンターであり。

良いとか悪いとかのものでもなく、人は誰でもそれを普段思う事も無く、それに従っているその「わたし」のコアな部分です。
もちろん真我とは別物です。

そのエゴが、「個」という他とは分離した隔てを作り出しているから、「わたし」とか「あなた」とか分離の個の主張をまず置いて会話をしたがります。

ですから、エゴというのは、良くも悪くもない、滅却させ死に絶えさせるべきものではありません。

ですが、その分離感覚が、あまりにも誰もかれもが強すぎて、自己を主張する余り、喧嘩になりがちな訳です。
つまり、そのエゴというシールドに完全に閉じこもっていて、自分と言うのはそこだけではないのだと気づく事がないのです。

「わたし」は、思考で出来ているのです。
「わたし」を想う事が無ければ、わたしはいません。

その「わたし」が、会話の最初から、「わたしは」「わたしの」・・・と「わたし」を主張してきます。
「わたし」が分離されるから、対照の「あなた」が分離されます。
また、「あなた」を分離するとき、まず「わたし」がいなければなりません。

「わたし」があるとき、「あなた」があります。
「わたし」がなければ、「あなた」もありません。

「あなた」は、「わたし」を実は離れてはいないからです。
「あなた」は、「わたし」の作り出した分離感覚です。
「あなた」は、「わたし」が作り出した「わたし」でもあるのです

「あなた」は、「わたし」
「わたし」は、「あなた」
という結果が、「わたし」が無い状態でも、有る状態でも言えるのです。

もしも世界に自分しか生存しておらず、誰も他に人がいないのであれば、「わたしは」と主張するのが、なんと馬鹿らしい事でしょう。

つまり、会話に主語を置かないというのは、その状態を疑似的に感じてみましょうという事なのです。

世界に自分しか生存していないのであれば、「わたしのもの」など有り得ません。
なぜなら、すべてが「わたしのもの」でないはずがないからです。

わかりますか? イメージできますか?
そこでは絶対、「わたし」が無いのです。

「わたしのもの」とか「わたしのものでない」とか、思いようのない程、全部が範囲なのです。

それら全ては、当然のようにそこに有って、「わたしのもの」でもなければ「わたしのものでない」ものでもないのです。

また「わたし」を主張する意味もありません。

「わたし」と周囲を隔てる意味は、どこにも見当たりません。

環境に、完全に溶け込んで、ただ在る状態を・・・さて、あなたは楽しめるでしょうか?

感情を持ちながら、感情を持つ「者」がいないのです。

その感情に気づいていて、気づいてそのまま、解放してしまっていいのです。

その感情を持つ者はいません。
それはただ、感情です。
自由に逃がして、蒸散させるに任せればいい。

この不思議感覚の中を泳ぎながら。
それを持つ者は、いないのだから。

そうしたら。

なんとも言いようの無い何かに満たされませんか?

人によっては空虚とか虚無とかを捉えるかも知れません。
しかしそれは、感じ取れていないだけです。

「わたしが無い」状態で感じてみてください。
今、どこに居るかを。

それは空虚でも虚無でもなく、満たされた世界です。

空虚、虚無を超えて、そこに行けますか?
満たされているそこへ行けますか?

自我にこの分離世界を見せたまま、そこに行った自分を、またそこを、感覚できますか?

いきなりは無理ですよね。

まあ、実験ですから、興味を持った方は試してみてください。
エゴの現象世界とは別の世界を感覚できなくても、全部は何ひとつ離れてはいない、全部でひとつだ、という感覚は、捉えられると思います。

しかし、ワンネス感覚が悟りではありません。
悟りは、もっと、感動的で、驚きと喜びに満ちたものです。

生きている、人生を体験している、という事が、誰にとっても真実の悟りへ向かっているという事だと、その事実を、みんな後に、絶対知ってしまうのだと、わたしは言い切ります。

今疑っている人も、絶対後に、あるいは後のいつかの人生に於いて、必ず知ってしまうと言い切ります。

また、疑ったままでも問題ありません。
知るまでは、誰だって疑うのですから。

でも、知らないのに断定しないでください。
疑ってもいいから、悟りなど無いと、断定しないでください。

断定は、妨げとなります。
知らないのに断定する事を、信じるとも言います。

知らないのに信じてしまうのも、妨げとなります。

2014-04-03