わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

不二一元【再掲】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前掲載した下記の記事の再掲になる。以前の記事は、私が手書きでノートに写したものが元になっており、私流の行替えになっている。

shikoutoshi.hatenablog.jp

今回の記事は、KTさんから頂いたオリジナルのコピー。花岡さんのしていた仕事の知識がよく出ている記事だ。ちなみに、「不二一元」は「ふにいちげん」と読む。

 

不二一元

 

昔のテレビというのは、まあ今も基本的同じなのですが、画面に映る映像は唯ひとつの点に過ぎないのを知っているでしょう。
電子ビームが三色の組み合わされたドットに激突し、点のように発光しているだけなのです。
それが左上から順次水平方向に素早く発光し、次の二段目、三段目の水平方向に順番に光って行く。
結果的に画面全体に映像として見るわけです。

視覚の残像錯覚を利用した映像です。

今は電子ビームではなく、液晶や有機ELなどにX・Yのマトリックスでドットの光の透過や発光を制御し、点の順次発光も一旦メモリーに画面フレームを蓄えてから全ドットを表示させています。

ですが、基本的に一点のアクティヴな活動により画面が表示されているのは同じ事です。

そのような信号が、キャリア(搬送する電波)に乗ってやって来て、各家庭で受け取るわけです。

「自分」と思い為す感覚が人にあり、自分のこの実感は、それは決して他の人の中には見い出せない。
同様に他の人もやはり、「自分」という感覚はその人の中にしかないのだろうと思う。
そうしてこの「自分感覚」こそが「わたし」の主であると思い為しているのでしょう。

それが言わば、一台のテレビです。

一台のテレビに映し出される映像は、そのテレビにだけ映っているのですが、他のテレビにも同様に映っています。
しかし、同じ映像ではありません。
なぜって、違うテレビに映し出されているのですから。

同じ映像を見るためには、同じ一つのテレビを見る必要があります。

つまり、映像が展開されるスクリーンが違うのです。

この宇宙はあなたの宇宙です。
他の人には、他の人なりの宇宙があります。

もしも他の人が有する意識に、自分の持つ「自分意識」が有るのであれば、同じ映像を見るでしょう。
しかし我々は知っています。
自分のもつ「自分意識」と彼等一人一人が持つ「自分意識」は、決して同じではないという事を。

そうであるなら、それは同じ映像ではないのです。

ひとつの信号がマーヤによって運ばれ、それぞれの「個」それぞれの「自分意識というスクリーン」に現象世界という映像を映し出すのですが、それにより最早同じ映像ではなくなります。

似通っているし、同じものだと主張したくなる世界ですが、違うのです。
ただし、影響し合い、反応し合い、同時存在感はあるのです。
同じものではないから、彼の死の世界を自分は実感視できないのです。
それはただ、動かず横たわった彼の身体としてしか捉えられないのです。

そこまでが、彼に関して自分に現れた映像なのです。
それを超えて彼の死の世界を実感視するには、あなたは真実彼でなくてはなりません。
つまり、同じ一台のテレビを見ている必要があるのです。

そのように、あなたにとっての「わたし」が存在するこの現象世界に於いては、真実言えば「あなたしかいない」のです。
あなたが見ていた彼は、真実彼の世界と反応して、あなたのスクリーンに現れたアバターでしかなく、マーヤが映し出しているあなたの世界にしかいない彼です。

それだから、世界の中にあなたが居るのではなく、あなたの中に世界が有るのだと言うのです。

「わたし」という意識や「自分」という意識さえ、マーヤによって現れている産み出された「個」という幻でしかありません。

しかし、その素のエナジーがあるから、そのように現象が産まれるとも言えます。
そのエナジーがマーヤが運んでいた信号であり、そうであるならその信号を発する根源が無くてはなりません。

結局元々、ひとつの存在が在るだけで、彼の意図により、ちからであるマーヤがあらゆるもの(幻)を産み出していると言えるのです。

そうであるなら、マーヤでさえマーヤそのものです。

深く深く現れを逆行して行くなら、マーヤの愛を超えてその絶対者そのものに辿り着くでしょう。
しかし彼を見た者は誰ひとりいません。
ただ、それである事を知るだけです。

全ては彼によって、彼の、み心に従って幻想が現れているだけです。
そうであるから、「わたし」というものの根源はそこに在り、彼と真実のわたしは異なるものではないと言うのです。

これは、思考では知られる事はないでしょう。
思考で知られるなら、それはただ知識です。
真実は全く、五感とは異なった知覚によって知られていく感覚であり、「わかる」によって「気づいてしまう」事で知られるのです。

そのわかる過程は、まさに一瞬の閃光です。

「わたし」というものを保持しているうちは、知る事がありません。
「わたし」「自分」「個」そのようなものから離れて、純粋意識として彼の傍まで行き、彼の愛、彼の恩寵によってしか知らされる事ができません。

しかし、それを知ったなら、いつかこのアバターの身体を離れて幻を消し去る時、永遠である彼の中に帰る事が、というより、いつでもそこに居たのだった事がわかるでしょう。

相対二元の世界は、見えるけど無い。
蜃気楼の中に「わたし」は暮らしているのです。

ただひとつ、「唯一の在る」だけが真実あるのです。
シャンカラチャリアは一体何を見たのでしょうか。
この「わかりかた」とは違うものを見たのでしょうか。

わたしの理解とは、わたしは全てであり、全てがわたしですというものです。
それでもわたしは、唯一の彼の、意のままになる道具にすぎません。
彼の一要素なのです。

誰もがそうです。
誰ひとり欠けたとしても、彼は成り立つ事はないでしょう。
更に言えばつまり、誰ひとり欠けたとしても、わたしは存在し得ないのです。
全部はそれだから、ひとつなのです。



2013-01-28 

善悪、被害者加害者に関する質問 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎質問者のお礼の言葉と他の読者のコメントを付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

善悪、被害者加害者に関する質問

 

Gさんからの質問です。


花岡様こんにちは。
悟りとは何か本当の自分とは何かを知りたくて色々な本を読んだり、身近でワンネス体験をした人の話しを聞いたりすると、すべては一つで宇宙は自分で私はあなたであなたは私、すべて完璧で、神=自分(わたし)というところにいつもいきつきます。

世界の素晴らしいもの(きれいな花とか、壮大な自然とか人の優しい心とか)に目を向けた時はそう思えなくもないのですが、ワンネス体験というものをした事がないので、まだ頭の中での理解にすぎない段階なのだと思います。

たとえば虐待や強姦、殺人などのニュースを見た時は、どうしてもそれが完璧な世界で素晴らしいとは思えないのです。悟った人というのは例え自分の親に高温のアイロンを押し当てられても、虐待していただいてありがたいありがたい、強姦されても、ありがたいありがたい。という風に思えるのですか?

この世には被害者も加害者もなく、善も悪もないということをどうしても知りたいのです。悟った人にはそういうことは起こらない、という答えはなしで、世にいう「被害者」という立場になった時にどういう風に生きれば苦痛を消せるのか、という事が知りたいのです。たくさんの覚者ブログ的なものを書いてる方の所へ同じ質問を投稿してみましたが誰一人として答えてはいただけませんでした。
善と悪、被害者と加害者について花岡様のお話しをお聞かせいただけらと思います。よろしくお願いします。


確かに悲惨で醜悪な事件を目の当りにすれば、こんな事があっていいはずなど無いと思う事でしょう。
しかし同時に我々は、世界には美しい自然や人としての温かさがある事も知っています。

なぜ事象は起こるのでしょう。
それは誰に起こるのでしょう。

人に起こった事、地域に起こった事、それがもし、起こってはいけない事であるなら、最初から起こりようがない。
起こるようになっているから、起こってしまう。

それを統制しているのは過去の第一原因から次々引き継がれた原因結果の連鎖ではありません。
それはそうなるように予定された、つまり予め定められた「起こる事」が用意されていて、用意した「意思」があるから起こってしまうのです。

そうでなければ宇宙など、あっけなく激突崩壊をしてしまう事でしょう。
世々、宇宙がそれ自体崩壊も無く運行し続けられるのは、予定された軌跡を、予定されたままに動くからではないでしょうか。
そのように、物事全てが間違いなく運ばれるからではないでしょうか。

それを洞察し、予定を読み取る「星読み」。
今では誰ひとり知る者も無い占星術原始仏教の時代にはあったそうで、どんな事でも広い心で許した仏陀でもそれを行う弟子を見つければ、きつく叱咤し禁止したと言う事です。

予定を知る事が大切なのではなく、現れる事象、人々の意思感情の干渉や応答の営みの中にこそ、知るべき重大な意味があるのだと知っていたからです。

この世界は相対する二つの極と、それに続く中間相互作用で出来ています。

そのように、この世界では、被害者も加害者も、存在しているのです。
善も悪も存在しているのです。

それがもし、あなたに起こった事であるならば、あなたに必要だから用意されたのです。
あなたが知るために、どちらかの極か、その中間のどこかが、あなたのために用意され、起こるはずの事が起こったのです。

起こる事が起こって、それだからあなたは疑問を持ち、知りたくて、ここに問いを持ち込んだのでしょう。
そのような起こる事があなたに起こらないなら、あなたは知りたいなどと思う事はなかったでしょう。

また、悪を知る事が無いのであれば、善を知る必要など何処にあるのでしょう。
人々が悪を為すのは、善の尊さに目覚めるためではないでしょうか。

被害者にならなければ、被害者のほんとうの痛み、悲しみ、苦しみなど、どうして知り得ましょう。
また、加害者にならなければ、加害者の真実の立場など、どうして計れましょうか。

それぞれが、それぞれの立場で、それぞれの知る事を知るために、物事は用意されたのではないでしょうか。

戦争の無い平和な世界を作るのだというのが、シルバーバーチの言い分です。
しかし、そうはなりません。
起こる事は起こってしまい、しかもそれには、相応の、しかも重要な意味があるからです。

しかも戦争のない世界を勝ち取るために戦うという論理の破綻した事を言いだす人々も世界にはいらっしゃいます。
そう言いたくなるのもわからないでもありません。
そう思いたくなるほど、世界はネジ曲がっているようにさえ感じます。

しかし我々は、起こる事象によってしか、現れる世界の意味を、また、人というものを知る事ができないのです。

戦争、あるいは殺戮、そのようなものがある事で、平和のその大切な意味を知るでしょう。
もしも人殺し、暴力がなければ、平和や人の優しさなど、どうやって想う事ができるでしょうか。
そこに平和など必要では無いという事になります。

そのような変動、激動、変化がなかったら、人はなんのために存在して、何を知ればいいのでしょうか。

さて、こころの中の、とてもとても小さな、意地悪。

それはそのまま、戦争の火種でもあるのです。

戦争の中で必死に助けを求める負傷した敵兵を、味方の銃撃からかばってやる、そのような事が平和の希望に繋がるかも知れません。

それだから、人生は体験して味わって、そこから知って行くように運ばれるのです。

起こる事すべてに意味はある。

それだから、確かに加害者も被害者も存在はするけれど、それは加害者でも被害者でもなく、互いが互いの知る事のために用意された体験を間違いなく歩んでいるのだとも言えるのです。

そのような両極の素因を誰もがもっているのです。
相対世界は、そのような組み立てになっているのです。

しかしそれは、「人」という自我の体験であり、それだからどちらか一方の極に立って主張する。
自我という意識の中に、二つの極による相互作用から成る世界が展開されているからそうなります。
一方に立つから、他方を断定するのです。
自分は被害者だ、あいつが加害者だと。
昨日まで加害者だった者が、今日は被害者として相手を裁こうとする。

もしも人が「人」を全く客観視し、起こる事を起こるまま観察するならば、つまり、「人」という自我を離れて完全に観察者の立場に立つならば、そこには見る者としての立場しかなくなります。

二つに分断してどちらかと断定し裁くのは、自我の中に埋もれ、ある時は加害者、ある時は被害者として都合だけを主張する利己的な思考ではないでしょうか。

起こる事は起こるように予定されていて、物事はそれに向かって動いて行く。
そのように予定した「意思」があるのです。
そこに「目的」「意味」があるから、そこへ向かわせる「意思」が働いているのです。

我々はその軌道を、迷っているがごとく歩んでいながらも、それは間違ってなどいない。
どんな事が起こるとも、誰と喧嘩しようとも、どんな被害を被ろうとも、それは、その目的に辿り着くまでの知り行く過程にすぎないのです。

そしてそれは、そのように、後から、結果的にわかることなのです。
最初からわかっているなら、生きる意味など無いのです。

苦楽を体験してこその生きる意味です。
それが「人=自我に翻弄される者」と言うものです。

それだから今は、被害者も加害者も存在し、善も悪も存在すると言えます。
しかし、ほんとうは被害者も加害者も存在せず、善も悪も存在しないと言うのです。

熱いアイロンを押し付けられて「ありがたい」と言うのは、辿り着いてやっとわかる事なのです。

その「意思」の在るに気づき、その「意思」を発動している者、「絶対者」、その「無いはずだけど有る自分」を発動している「それ」がわかった時、はじめてわかる事なのです。

そのアイロンがない事には、辿り着けない、必然の理由があるのです。

それがわかった時の、感涙に、誰もが導かれて行くのです。

それでやっと、絶対者はひとつ、世界は作られた世界、太陽からでる光が太陽無くして有り得ないように、世界はそれ無くして有り得ないと知れるのです。

宇宙の何もかもが一つであり、離れてなどいないと知れるのです。

世界は何も間違っていないと知れるのです。

その救いによって、その解放によって、やっと「ありがたい」と言い切れるのです。
それで人は「人」を卒業できるのです。

物事は最終到達点に向かって、間違いなく進んでいて、それは過去に起因するものではなく、その最終到達点があるが故に進んでいて、過去の原因もそれの故に現れ、ところが我々は原因を恨むが故に、今の現れを受け入れられず苦悩している。

また、今の現れに、理想を掲げるから、受け入れられず苦悩する。

「意思」「みこころ」、それには誰もかなわない。
それは、人のために、絶対者が人を想うが故に起こった事なのです。
絶対者が人を想うそれが、見返りを求めない愛、理由の要らない愛、全てを許す愛です。

それを受け入れて、今の現れを許し、絶対者に任せ切る態度に出るなら、遅くなく、わかって行くでしょう。

今、この起こる事を拒否し、否定し、受け入れないのに、悟りを求めるエゴ。

すべての要求を放棄し、ただ受け入れ、与えられるものだけを頂くなら、「それ」は求めずとも与えてくれるでしょう。

そのような事がわかる「わかるちから」が、我々には内在されているのです。

それを観察者とすればいい。
また、アートマンと呼んでもいい。

内なる「わかるちから」に気づく事から、まず始めるのがいい。
それは、あなたの「知りたい」を、裏切らない。

それは誰にとっても、真実の師、グルでしょう。
目を開けて、この世界を自我に見せたまま、内なるそれに立場を置いて、この世界とその世界との在り位置を確認するとき、あなたはそれで在る事に気づくでしょう。

 

 

2014-03-28

 

 

[質問者G]ありがとうございます

花岡 様 

お忙しい所、質問におこたえいただき、お時間さいていただきありがとうございました。 

「花岡様のおっしゃることがよくわかりました」という言葉だけでは言い表せない、腑に落ちた感というか、なんとも言えない思いが一文一文読むたびにこみ上げてきました。今までは、加害者も被害者もなく世界は完璧であると言われても、それは美しい世界しか見ないようにしているだけのような、どこか綺麗事を言っているだけのような感じがして、どうしても私にはその真意がわからなかったのですが、花岡様の言葉には綺麗事などなく、うんうんなるほどと、私がというより心がうなずいていました。 
なぜ世界にはこんな残虐な事が起きるのだろうかと考えすぎて熱がでてしまう私の疑問にお答えいただき本当にありがとうございました。 

また未熟なコメントを投稿してしまうかもしれませんが、更新楽しみにしています。

 

 

[読者SS]コメントしたくなりました

ふと何気なくブログを見たら、コメントを書きたくなったので、書かせていただきます。 

以前、コメントをさせて頂いたSSです。 
恋い焦がれるなら会いに行きなさい、とお返事を頂いたのに、 
あの返信を見てなぜか散々泣いた後、なぜか「悟らなくてもいいや」と思ってしまい、結局まだ「実在」に会いに行けてはおりませんが 

*下記の記事の質問者SSです。(ブログ管理人より)

shikoutoshi.hatenablog.jp



> 欠片のひとつも隠しておかないよう、エゴを消さずともエゴから自由でいなさい。 

それは私には無理だと思っていました。 

しかしふと、今日の記事を見て 

> もしも人が「人」を全く客観視し、起こる事を起こるまま観察するならば、つまり、「人」という自我を離れて完全に観察者の立場に立つならば、そこには見る者としての立場しかなくなります。 

なるほど!と合点が行きました。エゴとは「私自身」の事だったんだと。 

今まで私は「エゴ」とは、自分とは別に存在する「悪い何か」だと勘違いしていました。よく精神世界でインナーチャイルドとか深層意識とか言いますが、そういったものの一部で「自分の中にある至らない部分」だと思っていたんです。 

だから散々「こんな自我死ね、エゴ死ね」と、やっていました。 
…それって、実は壮大な自己嫌悪だったんですね。 

元々自己嫌悪が酷い私が「自我死ね」なんてやったら益々自己嫌悪が深まります。 
そうではなく、自分自身を客観視して「このような自分もいるな」というふうに見たらいいし、結局は「起こる事が起こる」のだから、全て実在の意志、どんな「私」であっても、実在がそのようにしたのだから全て意味があるのだと思って、どんなエゴも許し愛したらいいんだ…、と、今このブログを読んで気づいたので、コメントさせて頂いた次第です。 

…そんな感じで合ってるでしょうか? 

私は人生今まで思い通りにいかない事ばかりで 
社会的に言えば「おちこぼれ」で、本当に至らない事ばかりしてきました。 
こんな愚かな自分は死んだ方がいいと何度も思いましたが、 

それが実在の意志で、起こるべくして起こったというなら、「自我」のせいではないと思うんです。 
それが運命だったのなら、仕方がなかった、「自我」は悪くない、どうしようもなかった。 
それは全て、宇宙が起こした事なのだ…と思うと、本当に救われます。 
少なくとも罪悪感は無くなります(と言うと、反省しろ!と非難する方も居りましょうが) 
ですが、ふと思うのです。 

全ての人がそのように「実在の意志」で動かされているならば、 
この世に「悪人」は居ないのだと。 

誰もが、仕方なくそのような事をするべくしてしてしまった。 
「自我」であるその人にはどうしようもない事だった。 
その方がそのような事をして下さったお蔭で、宇宙全体にとって何かしら必要な事が起こったのだと。 

そう思うと、自分も他人も責めないで済みます。 

…と、書いたのですが…、それって「責任逃避」なのかなぁ…と思う自分が出てきました。 
しかし実在の意志なら仕方がないと思うのです。 
それに「責める」事には何の意味もないと思うのです。 


長くなりましたが、こうしてふとコメントしたくなったのも実在の意志なのでしょう。 
質問をされる方が居なければ、こういう事象は起こらなかった訳ですから 
誰もが気づかず誰かに貢献しているのだな、と思います。

 

 

お答えします「怒りについて」 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎質問者のお礼の言葉と他の読者のコメントを付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

お答えします「怒りについて」

 

境界性人格障害についての記事を読まれた方からの質問です。


> 花岡さんこんばんは。 
何度か読ませていただいております。いつも愛のあふれたお言葉に心和んでおります。 

また、今回の記事はシンクロする部分が多く、心に響いてきます。 
私も幼少時代からの兄弟の暴力や母の期待やいじめ、父の抑圧を受けて育っており、怒りをコントロールすることができずに、特に生理前は物を棚に置いて落ちたというような小さなことでも思い通りにならないことに怒りを感じます。 
そしてシンママで子育て中なのですが、子供に腹を立てて傷つけるようなことを大きな声で怒ってしまいます。 
その姿はまるで小さいころの兄弟と私が入れ替わったように支配的です。 
何度も見つめてきて、最近は過ぎたことだと兄を赦しているつもりですが、現実は変わりません。。。 

どうかもう少し怒りについてお話をきかせていただけないでしょうか。 
今後も楽しみにしております。 


怒りそのものは、人にとっても他の生き物たちにとっても必要なものです。
これは生きていくために備わっている機能です。
必ずしもいけないものではありません。

人はどうしても生きていくように出来ています。
生きていく事を放棄しないように、命の継承を絶たないために、食欲や性欲などのような基本的欲と、恐怖や怒りなどの防御的心理が備わっている訳です。
恐怖や怒りがない事には、人は簡単に事故に命を落とし、護りたいものを次々に奪われてしまうでしょう。

問題は過度の恐れや怒り。
反応が過敏な人もいる訳です。

恐れから怒りへ、次に暴力へ。
これが、心理的な進行パターンではないでしょうか。

つまり誰でも、奪われる、失う恐れを常に無意識的に持っていて、それが現実となって現れる時怒りが起こり、阻止したいがために暴力へ発展する。

失うものとは、大事に所有しているもの、執着を置いているもの、自分のものとして位置付けるあらゆる物質・非物質・信念や価値を意味づけている全ての事です。

失うというのは、明らかな消失だけではなく、否定される事もそれであり、否定される事を否定したい、つまり自己を護りたくて怒りが起こり、怒りが臨界を超えると暴力となるのかも知れません。

耐える、我慢するというのは、暴力の発動を我慢しているのであって、怒りは起こっているのです。

暴力というのは、身体的ダメージを与える事だけではなく、精神的・心理的に(言葉や態度)それをする事も、あるいはその状態をイメージする事も暴力でしょう。

また、単に意地悪な性格から暴力的な行為をする人、そのような思念を抱くという人も、根底には自分を否定される事を否定する、受け入れてもらえない事を否定する、自己価値を護る故の現れなのではないでしょうか。

恐怖・怒り・暴力、これらは繰り返しの体験からの刷り込みによって、より具現されやすくなるかも知れません。
虐待を受けた子が親になった時、虐待をする親になると言うように。
ささいな事にも敏感に反応して怒りが起こり、どうしようもなく暴力に繋がって行く。

このような事は病気ではなく、日常にそのような環境に置かれた事による習慣的衝動なのではないでしょうか。

ほんとうは、誰だって、誰も傷つけたくない。
わが子、わが親、わが兄弟なら、尚更です。
しかし、信頼している相手なら尚更、否定・拒否される事が辛く、怒りがこみ上げてきます。

怒りは時として、表現でもあり、訴えでもあり、言葉に託しきれない思いを、感情を、わかって欲しくて起こしている事もあるでしょう。

相談者が、わが子に怒りを向けるのは、愛情の逆表現でもあるのではないでしょうか。
わが子なら、立派な者になって欲しい、きちんと出来る子になって欲しい、こうであって欲しい、ああであって欲しい、それなのに、受け入れてくれない。

相談者の親も、たぶんそのような思いがあって、愛情を怒りで表現していたのではないでしょうか。
そして、親もまた、その親からそのように育てられたのかも知れません。

そうであるなら、相談者の兄弟もそのように育てられたのでしょう。
つまり、妹や弟にも、同じような表現手法を使って、思いや感情を向けていたのではないでしょうか。

そのような刷り込まれる結果の継承が続いて行くのではないでしょうか。
言葉が受け継がれて行くように、国民性が受け継がれて行くように、価値観や尺度が受け継がれ、刷り込まれて行くように。

今、相談者が、わが子に対してそうであるのは、課題として託されたのではないでしょうか。
その連鎖を止める役目として。

もちろん、親も、兄弟も託されていたには違いないでしょう。
それでも親に於いては、親の問題であり、兄弟に於いては兄弟の問題です。
そして、相談者にあっては相談者の問題です。

それぞれが、それぞれの問題として、答えを導いて行かなければなりません。

そう考えたら、これは親も兄弟も自己暗示にかかっていたのであって、許せる事であり、許さないといけないのではないでしょうか。
それがつまり、連鎖を止める最初の「とっかかり」になると思うのです。

みんなが被害者であり、みんなが加害者であり、そういう事がひとつの家庭の中で起こっていた。
それは許してもいい事であり、許さなければいけない事であり、そして許す時、被害者も加害者もなく、ただの思い込みによって自ら作出していた断定であった事に気づけないでしょうか。

たいていわが子を叱る時、叱り方を学習していないから、怒るという手法を使ってしまいます。
怒るから、受け入れられません。
受け入れられないから憎らしくなります。
憎らしいと、ますます怒りがこみ上げてきます。

怒りながら「これではいけない」と思うでしょう。
思う人は、抑えようとします。
感情と理念という逆位相の摩擦が起き、葛藤します。
これはかなりのストレスとなるでしょう。

自分が刷り込まれた、あるいは作り出した価値観、尺度、わが子はこうであってはいけない、こうでなければいけない、は、わが子を想うが故ではあるでしょうが、ほんとうに価値ある尺度でしょうか。

抑えつける育て方より、健康で、すくすく育ってくれたらそれでいいのではないでしょうか。
他者に自慢する子でなければいけないのでしょうか。
食べこぼしをする子どもらしい子どもで、いいのではないでしょうか。
おもちゃを散らかすやんちゃでも、いいのではないでしょうか。

最終的に、立派な人というのは、偉い人でも、お金持ちでも、権力を持った人でも、賛美される人でも、ありません。
人を傷つけず、迷惑をかけず、穏やかに慎み深く、真面目に自分の人生を生きていける人であれば、立派なのではないでしょうか。

子は親の持ち物ではありません。
理想や夢、希望を、押し付けてはいけません。
それは今ある子への否定であり、悲しい事です。

愛情の主軸を、「こう育てて行く」から「見守って行く」に変えてみればどうでしょうか。
支配するのではなく、受け入れてみてはいかがでしょうか。
親が、子を受け入れるとき、子は親を受け入れます。

受け入れるというのは、許すという事です。
ほんとうの愛情は、そういう事です。
愛せるなら許せるのです。

受け入れる。
許す。

これを心がけて行けば、何に対しても許せる許容が広がり、怒りはめったに出なくなると思います。

 

2014-05-05

 

 

【読者SS】久々にコメントします。

ちょっとコメント違いかもしれませんが、他に書くところか見当たらないので、こちらにコメントさせて頂きます。 

久々に書き込みします、SSです。 
実は前回のコメントの後、色々と「苦しい」事があり、なんか悟り関連のブログとか読むと、凄い怒りに駆られるようになって、…失礼ながら正直に書きますと 
「こっちはこんなに苦しいのにお前らだけ悟って幸せになりやがって」と、 
何でこんな憎悪が出てくるのかと思うほど憎かったんですが、 
…まぁ出てくるもんは仕方がないので出るに任せて苦しんでおりました。 

そんな中、頭の中では悟り系の色んなブログの知識がグルグルしてて、 
「神は居ない」だの「大いなる宇宙はチッポケな自我の事なんか考えてない」とか浮かんできて、「だったら私なんかどうでもいいんだな」と思ったりしてたんですが。 

しかしです。…私は悟り体験が無いので実感はありませんけど 
覚者さん達は揃って「世界はひとつだ」と言います。 
「世界は全て自分で幻で、境界は無い」と言います。 
…その割には、「ビルを思い通りに動かした」とかいう話は聞いたことが無いので、 
世界は自分であっても、思い通りに天気を変えたりできないって事なんですね(…ってそんな事考えるのが自我って奴です…冗談です…笑) 

でも、世界は一つで自分なんですよね。 

だとしたら、思考も感情も記憶も考えも何もかも共有されてるって事になりませんか。 

だって、朝起きた時、自分の記憶が昨日と一緒って、誰が証明できます? 
この世は幻で、思いは即現実らしいので、周囲の状況の辻褄合わせなんか完璧だろうし 
誰かが記憶を操作したとしても 
忘れちゃった記憶は思い出せないって事は、無いと一緒ですよね。 

そしたらですよ。 
もし、仮に。 
今、私が考えてる事が、花岡さんから流れてきた思考であったとしても 
それを証明する術はないって事ですよね。 

この文章を、花岡さんが考えたものだとしても、 
その思考が私に流れてきて、私が「私が考えた」と思ったら、私の中ではそうなる訳です。 
で、この文章を読んだ花岡さんが「何を書いてんだコイツ」と思ったとして、 
その「何だコイツ」の思考は、他の誰かから流れてきたものかもしれない訳です。 
…まぁかなり妙な事書いてるとは思いますけど(汗)変な奴だと思われても仕方ないですが。 


という事は、今、私が感じている苦しみや恐怖は、他の誰か…つまり 
「他人役」をしている自分自身(ワンネスですから)の苦しみや恐怖な訳で、 
また、悟って至福を感じてる人々の至福もまた、皆の至福、という事になります。 

だから本当に悟った人は、恐らくそれがハッキリわかるので、 
つまり本当に、皆の幸せを願ってる訳で、 
そしたら「神」というのは、その「悟った人」役をやっている自分ともいえる訳で、 

つまり…、花岡さんが神に見えてきました。 

この「悟った他人役」をやってる自分が、 
「全て起こる事は悟りの為にあるのだ、神は応援している」と言うのなら 
確かにその通りなんだろうと。 

実体験から言っている自分が言ってる訳ですので。 

それと同時に思ったのは、 
例えば「成功」は多くの「他人役の自分」によって支えられたものだという事です。 
多大な失敗をする自分、業績を上げない自分、二位や三位になる自分によって、 
支えられた「成果」なんだなと。 

なぜならどんな素晴らしい事を考えたり、気づいたり、理解したりしても 
それは「他の自分」から流れてきたものかもしれないからです。 
大体、殆どのアイデアって「ふと浮かんだ」とか「ひらめき」でしょう。 
それを自分が考えたと、誰が証明できます? 

ともかく 
苦しむ自分が居るからこそ、幸せを感じる自分が存在できる。 

だから、今、メッチャ苦しい人が居るならば、逆に言うと 
物凄い幸せを感じる自分が同時に存在する、という事で、 
それはいつか逆転する事がある、という事です。 
なぜなら全ては波だから。 

貴方が幸せな時、誰かが苦しみ、貴方が苦しい時、誰かが幸せだ。 

その上下の波を受け入れたところが悟りの境地かもしれません。 

ともかく何だか知らないけれど、こんな事を考えてしまって 
なぜか花岡さんが神に見えてきたので、ちょっとコメントしてみました。 
さてこの文章はどんな自分から流れてきたのかな…(笑)

 

 

質問者NM] 

花岡さま 

こんばんは。とりあげてくださり感謝します。 
読ませていただき、多々思い当たる節がありました。 

抵抗、無価値観、奪われることへの恐れなど、まだ自分がこんなにおそれていたことに気づけて感謝します。 
「こんな子に育ってほしい」 
私は自分が味わった思いをしてほしくない!と思い頑張って怒りを耐えて耐えて、生理前に爆発してしまいます。 
ですが、立派な子に育ってほしいとは一つも思っていないのですが、大切ゆえに嫌われない子であり人を愛する子に育ってほしい。自由に育ってほしい。笑っていてほしいという過度な想いで誰より私が一番邪魔してしまいます。 
受け容れる・赦すを繰り返していても、生理前だけはうまくできません。 
(下腹部からくる)怒りの嵐がやってきたときに、それを内側で見つめる通過方法がよくわかりません。 

ですが、これは確かに先祖代々の課題だと思います。見つめ続けてみます。 
子を赦すのは当然です。子は何もしていないのですから。。。それを知っているからこそ苦しみ罰し続けながらも、それでもなお怒りを出してしまう自分を受け容れ赦すことから始めてみます。 

ありがとうございました。 

 

[読者MK]NM様 

私も2児の母です。私の父は高圧的で、よく怒鳴り、怒りの矛先を探しているような感じでした。 

私は二年くらい前から内観するようになり、私の中にも凄まじい怒りがあることに気づき、浄化メソッドを使って怒りの感情を減らして行っています。 
何より、NM様に伝えたいことは、お子さんたちを怒ってしまっても、 
「ご自分を責めないでください(^_−)−☆」です。 
たとえ、100点満点のご自分でなくても、昨日の自分より0.0001点でも良い点数を自分にあげられたら、ご自分を誉めてあげてください。 
マイナス点の日には、自分にご褒美をあげてください。少しグレードUPしたチョコレートでもなんでも☆ 

本当はダメな人なんて居ないのです。私がそうジャッジしているだけだったんだと最近気付きはじめました。 

花岡さんの仰るとおり、私の父も、子供たちの幸せを願っていたが故の言動だったのだと思います。 
父は、子供たちが幸せにならなかったら、「自分のせい」だと感じてしまう人で、でも「自分のせい」だと思いたくなかったんだと、今の私なら分かります。 

親が想い描く幸せと、子どもが想い描く幸せが同じ場合もありますが、違う場合もあります。 

父は、子どもたちが優秀で他人から羨ましがられる人生を送って欲しいという想いがあったようです。 
私は、そこそこの暮らしですが、幸せです。 
私の子どもたちには、他人からどう思われても、本人たちが幸せなら、それでいいと思っています。 
独り身でバイト暮らしでも、本人たちがそれで十分なら、それでいいと思っています。 
あるいは、子どもたちが、幸せでなくても、それは本人たちが、目覚めを迎える過程なだけなんだと思います。 

親自身ができる範囲で楽しく過ごすだけで充分だと思うようになりました☆ 
好きな曲聞いたり、食べたいお菓子食べてご機嫌でいればいいだけなんだと思う、今日この頃です。