わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】お答えします「空中浮遊・超能力とワンネスと悟り」

Sさんからの質問です。


> はじめてコメントさせていただきます。 
空中浮揚やテレポーテーションなど諸々な力と悟りは関係ないといいます。 
悟りと超能力、またワンネスはどの様な観点なのでしょう? 
それは単に、何が可能であるかの度合いでしょうか。 
自分が神であると悟ることは、ワンネスという繋がり以上の力を意味するのでしょうか?


悟りという言葉を使ってしまうから、真実が想念でかき消され、遠く隔てた彼方の事となってしまいます。
言葉で解釈しようとすれば、何もわからない。

また、自分が神であると悟る事は、悟る事ではなく、思い違いをしているのです。

これも神という言葉を使うから、今まで造り上げてきた神の定義、意味づけ、すなわち実際には知る由も無い神に、自分なりのイメージを置いてしまうのです。

言葉は定義で出来ているのです。
またその定義は思考が作り上げたのです。

実際には、悟りも神も、言葉にはできません。

それは、ただ「わかる」だけです。

「わかる状態」に無いのであれば、わからないのです。

瞑想そのもので、「わかる」という事は無いのだけれど、「わかる状態」に近づく事は可能です。

悟った人が「神」と言う名称を使うのは、あくまでも便宜上の事であって、名称そのものはどうでもいいのです。
「それ」でもいいし、「これ」でもいいし、「ヤハゥエ」だろうが「アッラー」だろうが、どうでもいいのです。

ただ、それは在るから、しかも、言いようが無いから、神と言っているだけなのです。

真実在るのは、それだけであり、その他は恒久に存在するものではありません。

それだから、ワンネスなのであり、しかもワンネスという言葉を使うから、自分なりのワンネスを皆さん思い浮かべるのです。
この一如というほんとうの意味を、真実悟って、改めて言葉にするときに、「全部がそれだ」と言い切れるなら、やっとワンネスがわかったのでしょう。

そしてまた、それは「ちから」や「可能性」やそのような、この世的な意味の事ではなく、つまり何かをする為のものでもなく、何かになる為のものでもなく、それはただそうであるのであって、そうであるだけでありながら、言葉によらず明らかに知る事になり、それだから明知と言われ、真実の愛も至福も明らかに知る事となり、満たされた在り方に在る事になってしまうのです。

いいですか。
なるのではなく、なってしまうのです。

自分(自我・マインド)が神なのではなく、神がこの自分を具現せしめているのです。
また、この自分の中に全てを具現せしめているのです。

悟りも神も、自分の持っているイメージを適用しているうちは、わかりようがないのです。
そのマインド、思考を超えて行かない事には、最初のとっかかりにさえ届きません。

さて、空中浮揚、テレポーションテレキネシス、いわゆる超能力についての質問ですが、そのようなものに憧れを抱く心理はわかります。
しかしながら、それが何の役に立つのでしょう。

かつて空中浮揚と称して座ったままジャンプする、ある方の痛々しい映像を見た事があります。
ご本人が楽しめているのなら、それでいいのですが、そこにはマインド、自我に翻弄された哀しい姿しかありませんでした。

そのような事は、現実という夢の中で、更に非日常という妄想の中に陥っているようなものです。
そのような人が、最も悟りに遠いのです。

それは人が作り出した気づきへのトラップでしかありません。
つまり、現実を逃避する誘導なのです。

仏陀が八大神通について言及したのは、あくまでも深遠世界に入った状態での洞察を意味しているのであって、それは洞察の加速に役立つからそう言ったのであって、この現実という自我が見る夢の世界、物質世界での物理的現象を言っているのではないのです。

スプーンは、スプーンとして使って役に立つのです。
スプーンを曲げたからと言って、曲げた事が何かの役に立つわけでも無く、スプーンとしても使えないのです。

そしてまた、サイババが手から、ビブーティを出した、指輪を出した、何かを出した、としても、それが何なのでしょう。
そのような眼に見える現象が悟りや神を知る事に役立つ訳でもなく、人の真実の幸せに寄与する事でもありません。

それは「信じる」事に人々を釘づけにする事はあっても、「信じる」状態であれば、他の人の理解を知識として溜め込んだだけで、自己の完全な澄み渡るような理解を味わう事にはならないのです。

悟りや神について、あなたが知りたいのであれば、この現実世界に現れ来るこの今の、意味を学ばなければならないのではないでしょうか。
なぜなら、これはそのために現れ来るからです。

現れは、過去の原因と結果の継続によって生まれてくるのではなく、最初に意味があって、そのために現れ来るからです。

これは教えられるものではなく、自ら解かなければならないあなたの為に用意された現れです。

悟りや神を誰かに教えてもらえると思っていては、いつまでも自ら知ろうとする事はありません。
それは教えてもらえる事ではありません。
もしも教えてもらえる事であれば、過去の賢者の弟子はみんな悟ったに違いないのです。

自ら知らなければなりません。
師は、そのための手法を提示しているに過ぎないのです。

興味をそそる超能力、娯楽としては面白そうですけど、あろうがなかろうが、どうでもいい事です。
かまけていてどうしますか。

幽霊やUFO、UMA、不可思議な事は、マインドが作り出そうとすれば、いくらでも作り出せますが、娯楽ネタに過ぎません。
かまけていてどうしますか。

この「今」に戻って来て、大切な事を洞察するべきではないでしょうか。


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さて、頂いた質問はこれで全部お答えしました。

お待たせした方には、最早質問した事さえ覚えておられないかも知れませんが、こちらも色々忙しくもあり容赦願いたいと思います。

そしてさて、畑を耕さないといけません。
楽しみながら、神を想いながら、それをしたいと思います。

わたしの経済力は既に破綻しておりますが、意に介しません。
いつ死んでも、受容しきっているからです。

神と共に在る、この喜びだけで、もうおなか一杯です。

ただただ、有難い。

これで、一杯です。

 

 

2014-05-06

 

shikoutoshi.hatenablog.jp

 

【時系列 花岡修平】お答えします「怒りについて」

境界性人格障害についての記事を読まれた方からの質問です。


> 花岡さんこんばんは。 
何度か読ませていただいております。いつも愛のあふれたお言葉に心和んでおります。 

また、今回の記事はシンクロする部分が多く、心に響いてきます。 
私も幼少時代からの兄弟の暴力や母の期待やいじめ、父の抑圧を受けて育っており、怒りをコントロールすることができずに、特に生理前は物を棚

に置いて落ちたというような小さなことでも思い通りにならないことに怒りを感じます。 
そしてシンママで子育て中なのですが、子供に腹を立てて傷つけるようなことを大きな声で起こってしまいます。 
その姿はまるで小さいころの兄弟と私が入れ替わったように支配的です。 
何度も見つめてきて、最近は過ぎたことだと兄を赦しているつもりですが、現実は変わりません。。。 

どうかもう少し怒りについてお話をきかせていただけないでしょうか。 
今後も楽しみにしております。 



怒りそのものは、人にとっても他の生き物たちにとっても必要なものです。
これは生きていくために備わっている機能です。
必ずしもいけないものではありません。

人はどうしても生きていくように出来ています。
生きていく事を放棄しないように、命の継承を絶たないために、食欲や性欲などのような基本的欲と、恐怖や怒りなどの防御的心理が備わっている訳です。
恐怖や怒りがない事には、人は簡単に事故に命を落とし、護りたいものを次々に奪われてしまうでしょう。

問題は過度の恐れや怒り。
反応が過敏な人もいる訳です。

恐れから怒りへ、次に暴力へ。
これが、心理的な進行パターンではないでしょうか。

つまり誰でも、奪われる、失う恐れを常に無意識的に持っていて、それが現実となって現れる時怒りが起こり、阻止したいがために暴力へ発展する。

失うものとは、大事に所有しているもの、執着を置いているもの、自分のものとして位置付けるあらゆる物質・非物質・信念や価値を意味づけている全ての事です。

失うというのは、明らかな消失だけではなく、否定される事もそれであり、否定される事を否定したい、つまり自己を護りたくて怒りが起こり、怒りが臨界を超えると暴力となるのかも知れません。

耐える、我慢するというのは、暴力の発動を我慢しているのであって、怒りは起こっているのです。

暴力というのは、身体的ダメージを与える事だけではなく、精神的・心理的に(言葉や態度)それをする事も、あるいはその状態をイメージする事も暴力でしょう。

また、単に意地悪な性格から暴力的な行為をする人、そのような思念を抱くという人も、根底には自分を否定される事を否定する、受け入れてもらえない事を否定する、自己価値を護る故の現れなのではないでしょうか。

恐怖・怒り・暴力、これらは繰り返しの体験からの刷り込みによって、より具現されやすくなるかも知れません。
虐待を受けた子が親になった時、虐待をする親になると言うように。
ささいな事にも敏感に反応して怒りが起こり、どうしようもなく暴力に繋がって行く。

このような事は病気ではなく、日常にそのような環境に置かれた事による習慣的衝動なのではないでしょうか。

ほんとうは、誰だって、誰も傷つけたくない。
わが子、わが親、わが兄弟なら、尚更です。
しかし、信頼している相手なら尚更、否定・拒否される事が辛く、怒りがこみ上げてきます。

怒りは時として、表現でもあり、訴えでもあり、言葉に託しきれない思いを、感情を、わかって欲しくて起こしている事もあるでしょう。

相談者が、わが子に怒りを向けるのは、愛情の逆表現でもあるのではないでしょうか。
わが子なら、立派な者になって欲しい、きちんと出来る子になって欲しい、こうであって欲しい、ああであって欲しい、それなのに、受け入れてくれない。

相談者の親も、たぶんそのような思いがあって、愛情を怒りで表現していたのではないでしょうか。
そして、親もまた、その親からそのように育てられたのかも知れません。

そうであるなら、相談者の兄弟もそのように育てられたのでしょう。
つまり、妹や弟にも、同じような表現手法を使って、思いや感情を向けていたのではないでしょうか。

そのような刷り込まれる結果の継承が続いて行くのではないでしょうか。
言葉が受け継がれて行くように、国民性が受け継がれて行くように、価値観や尺度が受け継がれ、刷り込まれて行くように。

今、相談者が、わが子に対してそうであるのは、課題として託されたのではないでしょうか。
その連鎖を止める役目として。

もちろん、親も、兄弟も託されていたには違いないでしょう。
それでも親に於いては、親の問題であり、兄弟に於いては兄弟の問題です。
そして、相談者にあっては相談者の問題です。

それぞれが、それぞれの問題として、答えを導いて行かなければなりません。

そう考えたら、これは親も兄弟も自己暗示にかかっていたのであって、許せる事であり、許さないといけないのではないでしょうか。
それがつまり、連鎖を止める最初の「とっかかり」になると思うのです。

みんなが被害者であり、みんなが加害者であり、そういう事がひとつの家庭の中で起こっていた。
それは許してもいい事であり、許さなければいけない事であり、そして許す時、被害者も加害者もなく、ただの思い込みによって自ら作出していた断定であった事に気づけないでしょうか。

たいていわが子を叱る時、叱り方を学習していないから、怒るという手法を使ってしまいます。
怒るから、受け入れられません。
受け入れられないから憎らしくなります。
憎らしいと、ますます怒りがこみ上げてきます。

怒りながら「これではいけない」と思うでしょう。
思う人は、抑えようとします。
感情と理念という逆位相の摩擦が起き、葛藤します。
これはかなりのストレスとなるでしょう。

自分が刷り込まれた、あるいは作り出した価値観、尺度、わが子はこうであってはいけない、こうでなければいけない、は、わが子を想うが故ではあるでしょうが、ほんとうに価値ある尺度でしょうか。

抑えつける育て方より、健康で、すくすく育ってくれたらそれでいいのではないでしょうか。
他者に自慢する子でなければいけないのでしょうか。
食べこぼしをする子どもらしい子どもで、いいのではないでしょうか。
おもちゃを散らかすやんちゃでも、いいのではないでしょうか。

最終的に、立派な人というのは、偉い人でも、お金持ちでも、権力を持った人でも、賛美される人でも、ありません。
人を傷つけず、迷惑をかけず、穏やかに慎み深く、真面目に自分の人生を生きていける人であれば、立派なのではないでしょうか。

子は親の持ち物ではありません。
理想や夢、希望を、押し付けてはいけません。
それは今ある子への否定であり、悲しい事です。

愛情の主軸を、「こう育てて行く」から「見守って行く」に変えてみればどうでしょうか。
支配するのではなく、受け入れてみてはいかがでしょうか。
親が、子を受け入れるとき、子は親を受け入れます。

受け入れるというのは、許すという事です。
ほんとうの愛情は、そういう事です。
愛せるなら許せるのです。

受け入れる。
許す。

これを心がけて行けば、何に対しても許せる許容が広がり、怒りはめったに出なくなると思います。

 

 

2014-05-05

 

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【時系列 花岡修平】お答えします「夢を持つことについて」

Hさんから頂いた質問です。


> 夢に向かって生きることは、ありのままの自分を受け入れていない、もしくは与えられたものを素直に受け取っていないということでしょうか。

昔から思い描いていた海外に行きたいという夢を再び追い始め、できるだけ出費を減らして、留学資金を作れるような生活を始めるために、都会から田舎へ帰ってきました。

ここで疑問なのは、何か目標に向かって行動したり、今目の前に存在しないものを追い求めることは、与えられるものを受け取っていないことになるのかということです。
未来に希望をもつことは、今を否定していることになるのでしょうか。

日々、今に着目すると、自分の思いどおりにいかなかったり、受け入れ難い出来事が起きたりしています。
ただ、自分の思いどおりにいかないという考えは自分が自ら作りだしたものであることは承知しております。そんなときは、あ、自分の枠内に捉われているのだとはっとします。

受け入れ難い出来事も、この先の何かのために必要であったんだと、うまく意味づけしようと葛藤するときもありますが、そのまま受け取るようにしています。
どう意味づけされるのか、探り探りの出来事もあるので、そういうときは次に起こるべき何かを待っています。

そんな中で、今の生きがいというのが、自分の夢に向かって、日々過ごすということです。
今自分が持っているものを否定しているわけではありません。
与えられたものを拒んでいるつもりもありません。

しかし、その裏返しとして夢をもつということは、結果的にそういうことになってしまうのでしょうか。
まとまりのない文書で大変恐れ入りますが、お答えいただけますと幸いです。



すみません、意味が汲み取れない部分もあって、勝手に解釈して言ってみます。

さて、あなたが夢に向かって生きたいのであれば、そうしていいのだし、与えられたものも受け取っても受け取らないでも、そうしたいのであればそうしていいのです。
それが嘘偽りの無い、あなたのありのままの状態なのですから。

それをどうこう、わたしには言う権利はございません。

ここでは人生相談という、つまり「こう生きたいんだけどどうしたらいいんでしょう?」というような質問の場には余り適していません。

あくまでも、覚醒とか悟りを前提とした人の考察、洞察、参考のために質問に答えているのです。

もしもあなたが、人生に迷いがあって、どうしようかな?と思っているのであれば、ご自身に素直に行動して、夢を追うのもいいし、希望を支えに生きても、それはいいのです。

そうではなく、今、真実の自分を探究していて、その探究について、目の前の壁、行き詰まり、身動きの取れない状態に陥った人の質問は、単に人生相談では無く、探究の一間なのですから、探究を前提として答える訳です。

この違いを理解できますでしょうか。

あなたの質問を拝見しますと、主軸は夢、海外生活、な訳です。
探究者は、夢に向かって生きようとか、海外生活を楽しみたいとか、余り、それは重要には捉えないかと思うのです。
探究者の主軸は悟り、覚醒、真実の自己を知る事ですから。

それで、どうお答えするべきかと考えたとき、結局は、自分の気持ちに嘘をつかず、夢に生きたいのであればそうするのがいい、としか言えない訳です。

しかし、ほんとうの事を言っている訳ではありません。
ただ、そう生きるのも、間違っている訳ではないから、そう答える訳です。

ほんとうのところは、どうなのでしょう。
探究者には同じように言う訳にはまいりません。
現実に現れる今には、意味があって現れているのですから。

夢、希望、それは自分が思い描いている理想です。
理想を掲げるとき、それは絶対、今に対しての否定があるのではないでしょうか。

このままでは満足できない、こうしたいのだ、という意思があるのですから。

もしも、今に充分に満足しているなら、この満足感を失ってまで夢を、希望を作り出す必要はありません。
つまり、満たされていないのです。
あるいは否定してはおらず、今のままでもいいのだけれど、今よりはもっとましだ、今より絶対いい、そう思っているとします。
しかし、それも、夢、希望のほうがましだと位置付ける段階で、今を否定している訳です。

自我の思考、想念が、仮想した理想を描き、そればかりを見ているとき、今をしっかりと見てはいません。

現実に海外で活躍している人との比較によって自分は得ていない、持っていないと主張する自我がそこにあるのではないでしょうか。

自分が自分のこの状態でいる事は、ありのままではないと主張するのは、なぜでしょうか。
では、希望、夢、それを叶えた状態が、自分のありのままなのでしょうか。

それは自我、エゴの範囲のありのままの状態でしかありません。
探究者は、そこを超えて行かなければならないのです。

すなわち、今現れ来る事象に、確かに意味を汲み取る洞察があるならば、この今に否定も肯定も無しに受け入れられるのではないでしょうか。

自我の自分は、ほんとうは今を否定している自分で、そうであるから未来に希望を夢を抱いているのではないでしょうか。

もしもそうであるなら、今の否定から描く理想、その夢、希望は、逃避ではないのでしょうか。

もしも逃避であるならば、夢の希望の、その場所に行ったとして、同じようにそこは今なのですから、今を二度と否定しないという事があり得るのでしょうか。

もちろんそこが、満足できる場所であるなら、そこに住み続けるでしょう。
しかし、今そのものを、確かにあるがまま理解しないのであれば、どこの今に暮しても、今を理解できないのではないでしょうか。
つまり、なぜこのような今であるのか、それを知らないまま、夢、希望に目を向けて今を見ない生き方でいていいのでしょうか。

そうであるなら、理想の希望の、そこに暮してもまた今に満足できず、新たな夢、希望を作り出す事にはならないでしょうか。

これはこのまま、輪廻の理由へと続きます。

もちろん、そうしたいのであれば、そうしていいのです。
ただ、探究者にとっては、逃亡者みたいな探究者になってしまいます。

それよりも、探究者にあっては、今現れるそのあるがままに学ぶ、その事のほうが重要な課題なのではないでしょうか。
なんたって、今、現実に現れている今なのですから。
意味も無く、現れ来るはずが無いのです。

なぜ、今に満足できないのだろう。
その不満を味わっているのは誰だろう。
それを味わっているのは、真実わたしだろうか。
真実のわたしは不満を持つという事があり得るのだろうか。
また、何に対しての不満なのだろうか。
それは真実不満なのであろうか。
学ぶべきは、いろいろ今に、沢山あるのです。

結局人は、誰でも、生まれた意味、生きていく意味、それがあってそうなっているのですから、生きるというその行為自体、意味に向かって動いている訳です。

探究者で無い方も、今の自分の気持ちに素直に生きて、それでも自分が在る理由に、その意味に向かって進んでいます。
今は、そのような途上で、そのように運ばれて行きます。
そうであっていいのだし、今はそうである捉え方をする流れの中なのです。

究極を言えば、夢を希望を抱こうが、そうであるまいが、否定しようが肯定であろうが、そうでなかろうが、そうなる必然によって人はそうなって行くのであって、どうであっても必要であるときにはそうなって行くと言う事です。

ですから、あなたが外国で生活をしたいという思いがあってもなくても、その必要が現れるそのとき、あなたは外国に行きますという事な訳です。

ただ、夢、希望についてクローズアップしたとき、見つめる方向を変えれば、対極の今への不満、否定、嫌悪も同時にクローズアップされるという事です。
ただ、それだけの事ですので、夢を叶えてくださいますように。

問題ありません。

と言いながらもなんですが、「置かれた場所で咲きなさい」渡辺和子・著 幻冬舎・刊
このような本もございます。
読んでみていただくのも、よろしいかと思います。

 

2014-05-02

 

 

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