わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

質問への答え(Kさんへ) 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。質問者の名前はイニシャルに変え、質問部分は青字にしてあります。最後の青字部分は、質問者の花岡さんへの返信です。

 

質問への答え(Kさんへ)

> 今は悟りがどうということはともかく、花岡さんのようになりたい、
「完全に自由になった感覚と、なによりも、この内側に源泉を、神を感覚できる幸せ」を自分も知りたいという思いが強いです。


Kさん。
あなたは、誰のようにもなる必要はありません。
あなたは、あなたのままで悟るのです。
あなたは、あなたのままで覚醒するのです。

今までだって、これからだって、神はあなたと寄り添っています。
ただ、気づけばいいだけです。

気づきが起こるのは、人それぞれ一様ではありません。
あなたには、あなたの気づきに至るプロセスが、そのデザインが既に用意されています。
他の人のそれをコピーしても、それは執着を強めるだけです。

自分も知りたい・・・執着ではない、その純粋な憧れと、情熱を忘れずにいれば、やがて訪れます。
誰にでも、それは用意されているのです。


> 具体的にどうすれば私もそのような境地にたどりつけるのでしょうか? 
役立つであろう具体的な瞑想法などがあれば教えていただきたいのですが、 
それとも方法なんてものはなく、私もそこまで委ね切れるまで苦しみ続けなくてはならないのでしょうか? 


瞑想は、それをしようとする自分(自我)がするのですから、自我を捨て去ることはできません。
自我は絶対的に気づきへの妨げになっていますが、それを消滅させる事は生きる事を否定することになります。

自我はあってもかまいません。
自我とは別の、内なる静寂に気づけばいいのです。
そのために、瞑想は必要です。
人によっても違うと思いますが、夜明け前、早めに起きて静かな環境で30分ほどの瞑想が効果的と思われます。
それは、なにかこう、自分が聖清なものになった感覚を呼び起こします。

自我に気づきながら、内なる深層に広大な静寂がある事に気づく。 これがまず必要です。
そのために、マインドの働き(雑念、思考)を止めてください。
すぐにはできません。 1秒、2秒、と、その度にトライすればいいのです。
眼を開けて行ってください。
自我意識に映る世界と、深層にある静寂の両方を感覚することで、より内側がくっきり感覚できます。

内側が感覚できるなら、次は自我を気にせずに放っておいてください。
内側だけに注意力をフォーカスしてみてください。
ある程度慣れてくれば、それほど難しくないでしょう。
ただ、内側にくつろいでください。
静寂を感覚し続けてください。
でも、これだけでは何も起こりません。

やはり捨て去れない自我をなんとかしなければ、いつまでも自我の言いなりです。
自我の行う瞑想は、準備にはとても役に立ちますが、それは直接的な手法にはなり得ません。

どうしてかと言えば、

気づきは、自分で勝ち取るものではないからです。
どうしても、それは与えられるしかないのです。
神の恩寵によるしかないのです。
それだから、他力と何度も言うのです。

それだから、自我を、自分に関わる一切を、明け渡す必要があるのです。
まだ、神を感覚することはできないかも知れません。
でも、内側は既に有ることに気づいてるはずです。
神はこの「内側」に在ることを疑わず、それに明け渡してください。

信じるのではなく、疑わないのです。
その二つは全く意味が違います。
信じる、疑うは、マインドの働きです。
疑わないのであれば、それはマインドではありません。ニュートラルです。

それが出来るのであれば、多くの苦しみから委ねるのではなく、今のまま委ねる事が出来ます。
わたしの場合は、苦しみの中で、開き直り、神に差し出しました。
できるのであれば、苦しみは原動力としなくてもいいのです。

ただ、神をうらぎらない自分であるなら・・・です。
完全に神を信頼し切れるならです。

どうしても必要なのは、自分が純粋なものになる事です。
幼子のような純粋さがどうしても必要です。
その天真爛漫な純粋さと、あらゆる命を健やかなれ、安かれと思える事と、すべてを許しきれる愛が必要です。

それは、呼び水です。
神は愛そのものですので、自分に愛があるなら、それらは共振し合い、引き合います。

そのために、日常で学んでください。
できるだけ殺生をしないでください。
人前で善行をしないでください。 誰も見ていないところで善行を重ねてください。
優しい人であって、だれにも気づかれないように優しくしてあげてください。
そのようでないと、あなたは既に贖い(あがない=見返り)を受けた事になります。
他人にも自分にも、嘘をつかないでください。
自分をだめな人間だとか、惨めな人間だとか、思わないでください。
他人も自分もジャッジして咎める(とがめる)事をしないでください。
人の罪も、自分の過去の罪も、完全に許しきってください。

そのように暮らしながら、
わかるという感覚、その感覚を常に内側に、結びつけておいてください。

それは修行として行わず、
そうしたいんだという自分がそうしてください。
頑張ろうとしてやらずに、
そうでいたい自分がそうするようにしてください。

ある日、胸が、なぜか切なくてしょうがなくなるでしょう。
それから後は、ご自分で、検証してみてください。
っていうか、自分にしかできません。
誰もそこに連れて行ってはくれません。

起こります。
泣いて、笑って、酔ってください。

Kさんは真摯に源泉に神に向き合おうとしているのがよくわかります

起こります。
そのための、今までの沢山の輪廻だったのですから。

 

●ありがとうございました!

花岡さん、不躾な質問にこんなにもご丁寧にご回答とご助言くださいまして本当にありがとうございます。 

拝読していて花岡さんのやさしさ、というか誠実さに心を打たれて何度も泣きそうになりました。 

特に最後のお言葉には本当になにか救われたような気持ちになりました。 

花岡さんのこれからのブログの記事も楽しみにさせていただきますが、 
特に今回いただいたこのご助言は何度も繰り返し拝読してこれからの指針にさせていただきたいと思います。 

変な言い方になりますがそれが起こることでこのご恩にも報いられたらと思います。 
花岡さん、言い尽くせませんが、本当にありがとうございました。
    • 2012-03-26 11:32
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