わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

過去世について 花岡修平「真我が目覚める時」

◎読者のコメントをひとつと、それに対する花岡さんのレスポンスをつけ加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

過去世について

 

人はその本性を悟り完成に至るなら、自らの過去世を思い出す。

と言うようなニュアンスで仏典に記されています。

仏陀を慕い、集まった弟子たちが彼の指導により人を遠ざけて独り山中で修行(?)する三ヶ月、あるいは三年、(仏典においては三という数は特別のように頻繁に出てくる)やっと明知を得たその時、多くの自らの過去世を思い出した・・・とあります。

また、仏陀自らにおける数えきれないほどの輪廻についても記されています。

人に輪廻があり、この生だけでなく、この生が始まる前の過去世があるとしたら、なぜそれを忘れてしまい思い出せないのでしょうか。

それぞれの過去世は、それぞれの物語。
その物語の中で、体験すべきは既に決まっています。
それだから、他の人の物語と激突する事無く、見事に整合されています。

その物語は、どうしたって必要な体験なのです。
笑いも涙も、苦しみも喜びも、あれやこれやを体験して、我々は徐々に完成に近づき、ようやくようやく、本当の事を知るのです。

過去世は誰も思い出せないけれど、その体験は、今、誰の内にも蓄積されていて、言い換えれば過去の全てが今の自分です。

それは、確実に内側に存在します。

しかし、それを外側に出したなら、物語は崩壊してしまいます。
それぞれが、それぞれの役目を担いながら、自らも他の人にとっても重要な影響力をもっているからです。

つまり、誰もが物語の主人公であり、他にとっては共演者の立場だからです。

それは、過去世がわかっていないから成り立つ物語です。

わかっていないから、傷つけ傷つけられ、励まし励まされ、助け助けられ、尊い物語を体験できるのです。

もしも。

過去世がわかっているなら、それはうまく世渡りをこなしていく便利なツールになる事でしょう。
絶対的に過去の過ちを繰り返す事はないでしょう。

それは、カンニングです。
ズルです。

過去世の体験が、しっかりと内側の血肉になっていないなら、再びそれらは体験されなければなりません。
その体験は、体験していながら役に立っていなかったからです。

そういう事があるから、多くの輪廻を巡る事になります。
体験が内側の血肉になれなかった事は、失敗ではありません。
よくよく体験しなければならないから、そうなるだけです。

過去世の記憶は、まったくそれの邪魔になります。
ついに彼は、永久に完成に至る事はないでしょう。

過去世の記憶は、そうだからやっと悟りに入った時に、思い出すものなのです。

また、過去世の記憶を思い出す事が重要か?といえば。
まったくそんな事はありません。
それは既に内側にあります。
そんなものを思い出す必要がどこにあるでしょうか?

過去世を思い出す事を、悟りのひとつの目安と考える人がいます。
しかし、それはまったく的を外しています。
彼は過去世にこだわり、執着し、今生で明け渡す事が難しい人と言えます。

過去は誰にとっても多くの辛い悲しい悔しい忌まわしい記憶でいっぱいです。
そんなものを思い出して何になると言うのでしょうか。

また、悟ったからといって、そのようなものはもはやどうでもいい事です。
思い出す必要などありません。

体験で得た尊い悟りは、既に今に活かされています。

人々の過去世に対する思いや憧れを刺激して、よからぬ企てをする教祖様がいるかも知れません。
「わたしの過去世はナンチャラ尊者だ」とか、「ナンチャラ神の化身だ」とか。
あろうことか「仏陀の生まれ変わりだ」と言ってのける方もいらっしゃるようです。

真実仏陀の生まれ変わりが、この世に生まれたとして、彼はそのような事は口が裂けても言うはずはありません。
尊いお方は、そのような聖なる名を利用して信者を集めたり絶対しません。

そもそも、信者を集める事すらしません。

信者を集めたいのは、真理の法の流布のためではなく、金庫の隙間を埋めるためかも知れません。
聖者は信者を募ったりしません。
ただ、縁により、弟子たちが集まるだけです。

水の分子が引き寄せ合い、流れる水となるように。
鉄の分子が引き寄せ合い、鉄鉱石が現れるように。
それらは集まる仕組みとして組み立てられています。

悟りについて、あれこれ妄想を抱くより、ただ純粋に憧れている事が必要です。
過去世も、あなたの頭の中に展開される宇宙のどこかの星とのチャネリングも、どうでもいい事です。

ただ内なる真我を疑わないでください。
それは神であって、そして、あなたそのものであって、あなたとそれしかなく、しかもそれはひとつです。

そのひとつから、あなたのような宇宙が、数として数えられないくらい無数に存在しているのです。

それは広大無辺でありながら、大きさと言うものがありません。

そこから考えたら、過去世なんて、ちっぽけ過ぎるのですよ。

あなたは、ほんとうに全てあなたなのです。
 
 
2012-11-04
 

 

[読者YAZB] こんにちは
毎回こちらにお邪魔するたびに、心が洗われます。 
このようなバーチュアル癒し温泉を提供して下さっている 
花岡さんや読者の皆さん、いつもどうもありがとうございます☆ 

確かこれもお釈迦さまがおっしゃった事だと思うのですが 
花が咲けば勝手に蜂が寄ってくる。。。 
というような意味合いの言葉を思い出しました。 

本物の師、賢者には、周りから勝手に人が 
集まってくるので、偽教祖様みたいにあれやこれやと 
宣伝文句を使う必要はないはずですよね。笑 

実際、私の知るそういう方々はどっちかというと 
集客じゃなく、その全く逆で、本気の生徒の邪魔に 
なるから、そうじゃない生徒はどんどん辞めさせようと 
することに労力を費やしていたような。笑 

そういう人物の一人である私の友人は 
とある国を旅行中、前世の生徒らに出会い、 

「おお、あなたは○○師じゃないですか!  
よかった、是非お寺に戻って我々を指導して下さい!」 

みたいな状態になってしまい、結局彼らの要望に応えて 
数週間ほどお寺に滞在したあと、このままずっといてくれと 
言う弟子らを断り、とっととアメリカに帰ってきました。 

(で、その際、そのお寺に伝わる代々の仏像とか、絵とか、 
えらい立派なお土産を持って帰ってきたのですが、 
それらの殆どを、現在アメリカにいるお弟子さんらの修行用にあげてしまいました。笑) 

「なんで、その時、お寺に残って教えてあげたかったのー?」 

と私が尋ねると、自分が残ったら生徒たちは再び自分に依存して、彼らの修行の邪魔になる、みたいな事を言っていました。 

また、もし彼らが本気で覚醒することを望み、現在彼らが 
自らのカルマを超えて、アメリカに来て彼の元で修行する! 
という者が現れたら、いつでも面倒を見るが、そこまでの 
決意をする者はいなかった、と言っていました。 

実際に、友人は他の国から来た生徒には、自分の元で 
学べるよう生活面、経済面、精神面と、ありとあらゆる 
援助をしていました。そういう生徒さんらは、多かれ 
少なかれ、己のカルマを変えたのだと私は思っています。 

花岡さんの「カルマ・業はその人自身の物語」というのは、 
まさにその通りだなーと深く頷きました。 

その人が書き直そうと思えば、この瞬間にでも変えられるの 
だけれど、そうすることは、これまでの人生(物語)を破壊 
もしくは否定することになるから、無意識に我々のほとんどは 
それを怖れているのかもしれません。。。 

と、いきなり問わず語りな感じな、超長・乱文コメ失礼しました。今年もあとわずかになりましたが、花岡さんと読者の皆様が 
残りの2012年を無限大に楽しまれますように☆
 
[花岡]
YAZBさん。 
いつも訪問頂き、ありがとうございます。 

また今回は、とても素敵なお話を公開して頂き、とても嬉しく思っております。 

なんかとてもすごい人たちがお友達にいらっしゃるのですね。 
それはやはり、巡りあう必然によってアメリカという地に根を下ろす事になったのでしょうね。 

これからもご活躍期待しております。 
お友達みなさまに、どうぞよろしく。