わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

罰当たり?(その1) 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎コメント欄でのある読者の質問と花岡さんの答えが、本文の理解を助けてくれる。Hさんから頂いた記事です。

 

罰当たり?(その1)

 

「ばち」あるいは「ばつ」と読みますね。

因果による報い、悪行による結果を指して言うのでしょう。

さて、神というものが在るとして、我々はそれを知らず、様々な愚行をして生きていて、それに対して罰など当てる神は在るのでしょうか?

いやいや、神は決して罰など与えたりしません。
すべて神によって現れている現象世界です。
すべてその愛によって見せられている世界です。

それに対して、それぞれの物や行為や現象に、人が意味づけして物語を展開しています。
それなのに、なんであれ人は、何かのせいにしたがり、誰かのせいにしたがります。
自分で選び、意味づけして物語を創り出しているのに、後から誰かのせいにして文句を言うのです。

神はどのような命でも、平等に愛しています。
どのような命も、みんな神の愛の中に存在しているのですから、神のほうからペナルティを与えたりしません。

行為に対して良くない結果が現れたのは、みんな自ら選択してそのような結果を創り出しているのです。
そのようなルートを選択して歩いているのです。
そのような現れを通して、我々は学んで行きます。
そのような仕組みであるから、「なぜだろうか?」と、考え始めるのです。

真実を知って行くきっかけは、いつだってそこらここらに散らばっているのに、人はやっぱり、誰かのせいにして自分を見つめる事をしません。

自分を見つめる事がないから、大なり小なりの悪い行いをしながら、より得する選択をして生きています。
悪い行いをしてはいけないのだと知りながら、悪い行いを選択して、誰もこの事に気づきませんようにと思っていたりします。
そして悪い結果を引き当てると、罰が当たったなどと言うわけです。

許されない事と知りながら不倫をして、家庭を崩壊し、高い慰謝料を払うわけです。

そういう人にとって、人生はギャンブルのようなものです。

しかし、神はそれに対して罰を与えたわけではありません。
それは許されない事だと知っていて、他の人たちも許されないことだと評価しているから、ペナルティで清算するしかなくなるわけです。
そういう社会ルールだからそうなるだけです。

自分だけ、かき集めようとするから、ありもしない罰を引き当てるのです。

それよりも、「今」に満足する生き方をしてみませんか?

誰かと比較して「わたしは持っていない」と嘆くよりも、「足りている」ことに満足して生きてみませんか?

「足りていない」と言う人も、「今生きて、ここに在る」事に満足するなら、何か打開策や、擁護される方向に運ばれるでしょう。

金銭的にも物質的にも、何かを得られたら、「得られたのはよかった」と思い、何も得られなくても「得られないのはよかった」と思うなら、それは全く「みこころ」を受け入れている姿勢です。

そのような人は罰を引き当てたり、自ら罰を選択する事をしません。

しゃにむに自己の利得を追い求め、かき集めようとするから、逆の一方(罰)も手にいれてしまいます。
分け与え、助け合おうとするなら、神の愛、慈悲に同期します。

作用反作用の法則です。
偏らず、その中道、「今に満足する」生き方、在り方であれば、心穏やかに、誰をも非難する事も無く、誰を見下す事も無く、誰を恨む事も無く、誰と比較する事も無く、見栄を張らず、意地を張らず、「あるがままの在る」で居られます。

そのような状態なら、真我にアプローチするのも、容易なのです。

どのような立場の人も、そのようであって欲しいと思います。
世界中の人々が、そうであって欲しいと思います。
もしもそうであるなら、この惑星は、このまま浄土となり、神の星となるでしょう。

しかし、そうはなりません。
そうなるなら、すごい事ですけど、実は、あまり意味はありません。
それは、この世界に於ける重大で重要な役割が存在するからです。
二元に分かれ、どちらかに偏る断片たちで満たされているから、この世界の偉大な意味が在るのです。

この、どうしようもなく、未完成だらけの存在達が、それぞれに関わり合い、学び合う事が出来ると言うその事が、とてもとても、素晴らしいのです。

どうしてか?・・・体験できるのは、この世界しかないのです。
この事実を思い起こしてください。

そう考えたら、なんと生まれてくる事は、尊く、有難い事だろうと改めて思うのです。

生まれてくる・・・この奇跡を、否定してはいけません。

あなたの親に向かって「だれも生んでくれなんて頼んだ覚えはない」なんて、二度と言ってはいけません。

愛されている、その故に、生まれてきたのです。
親によっても、神によっても愛されているが故に、生まれてくる奇跡が起こったのです。

これ以上の奇跡など、あるはずがありません。
そのような人々に、神は絶対に、罰など与えません。

罰は自分で選び、創り出したのです。


次回・・・この続きです。

 

2012-10-11

 

 

[読者MMM]悪いことをするつもりはないけれど
花岡さん、いつもありがとうございます。 
どうしても、自分の人生、できるだけ苦しくないように生きたいと思ってしまいます。 

虚弱なたちで、将来的には、失職するかもなぁ・・・という状況で、ここは無理しても(体は悪くなっても)仕事をするか、自分を休め、失職しても再起を図るかといった選択で悩んでしまいます。 

金銭的な楽か、身体的な楽か?という消極的選択です。 

「働かざる者食うべからず」てきな価値観で生きてきたので、その価値観ゆえに自分を縛りつけていることもわかっているのですが・・・ 

消極的選択は、自分の中では、ある意味「悪いこと」という感覚が抜けないのです。自分の価値観が「悪」と自分を責める。 

少しばかり愚痴った後で失礼ですが、人生の選択について教えていただきたいことがあります。 

私たちが、この人生で学ぶべきことは、このような選択肢(分かれ道)でどちらを選ぼうとも、形を変えて、課題としてやってくると考えてよいのでしょうか? 
つまり、生活が苦しくなる道でも体がしんどくなる道でも、同じような学び課題として、私たちが体験すべきことが現われてくると。 

一見選択肢(分かれ道)に見えても、実は同じ所へ出る(魂の経験としては)ということと考えてよいのでしょうか? 

悩みを解決することは難しいのですが、「一つ上の視点では、どっち選んでも一緒」と思えば、選択に対する心持が少し楽になるかもと考えてます。 
(いずれにせよこのレベルで悩みますけど) 

ご助言いただければありがたく存じます。 
 
 

 

[花岡]お答えします
MMMさん、こんにちは。 
決して押し付けたりはしませんので、参考としてお読みくださいね。 


> ここは無理しても(体は悪くなっても)仕事をするか、自分を休め、失職しても再起を図るかといった選択で悩んでしまいます。 
> 私たちが、この人生で学ぶべきことは、このような選択肢(分かれ道)でどちらを選ぼうとも、形を変えて、課題としてやってくると考えてよいのでしょうか? 
> 一見選択肢(分かれ道)に見えても、実は同じ所へ出る(魂の経験としては)ということと考えてよいのでしょうか? 


周囲から見たら、無理しないで体を大事になさい、と言いたい人がほとんどでしょう。 

我々は、その人に今、何が大事なのだろうかと考える時、表面的客観しか見えていません。 
表面的客観で、あれがいいだろう、これがいいだろうと言っても、何の助言にもなりません。 

ただ言えることは、どちらを選ぶのも、またその結果によって正しい選択だったと思うのも後悔するのも、それはそうしたくてそうするのだし、今までだってそうして来たという事です。 

我々は、どうしても迷った挙句に選択すると思う訳ですが、実は、迷いはどうあれ、結果的にはそうしてしまうという事。 
全てそういう衝動が湧き起り、自発的にそうしてしまうと言いう事。 
なぜなら、それを体験したいからです。 
その意図は、既に組み込まれているのです。 

例えば虐める人は虐めたいという衝動が起こるわけですが、それは彼にとって、どうしても体験しておかなければならない課題なのです。 
これが虐めるという事だ、虐める者の悔い、虐められる者の悲壮なのだと、如実に知る事が彼にとって必要な体験として組まれているのです。 

ある人は、選択の局面でどうしても決められず、どうにかなりそうになってしまうかも知れません。 
それも、その状況を体験したくて、つまり、どうにかなりそうな体験をしたくて、どうにかなりそうになっているのです。 
ですから、心の声に従う事に、なんの間違いもありません。 

それを体験し学ぶのです。 
これが、どうにかなりそうになっているという事だ・・・と、知るのです。 
もしも、どうにかなりそうになっているという事が、今知れなくても、後に、あれが錯乱寸前という事なのだと知るのです。 

どうしても、それに逆らった選択はできません。 
それだから、関わるあらゆる人、物、現象が、ピッタリと整合するのです。 
あなたがそこで、逆らった選択が出来るのであれば、世界はその整合にとても忙しく慌ただしいものになるでしょう。 

物事に、偶然とか、たまたまとか、一切ありません。 

じゃあ選択で悩む必要はないのか? 
いや、選択で悩む体験をしたくて、組み込まれた選択の局面です。 
しっかりと選択を悩んでください。 

わたしにはわかっています。 
あなたが最終的にどこに行くのかを。 
そしてそれは、あなたにもわかっています。 
ただあなたの自我の「わたし」は、それをしっかり体験して、様々な外的内的活動で知った事を、感動を、内なる真我に伝搬し、真我の召使として主演を演じているのです。 

ですから、わからなくてもいいのです。 
そのままで。 
それは、しっかりと、役目を果たしているのです。 
 
 
[読者MMM]ありがとうございます
ご助言ありがとうございました。 
しっかり悩みます(笑)。 

多分、選択結果はもう半分ぐらいは決まっています。 

実は、会社に入って2年目にあるしがらみで養老保険に入りました。その満期が2年後。 
また、とあるしがらみで、個人年金にも入りました。 
すべて、このタイミングで、私の収入が不足することを予測されていたかのようにピースがハマるのです。 

ただ、これから人生が自分に何をさせようとしているのかが見えていないことと、会社を辞めることへの罪悪感(+人生のコースを離れる不安)のようなものがあります。 

その点が決断を鈍らせているのです。(今すぐに決めなくても良いのですが) 
会社にいる人たちもいい人で、いい会社なので、その関係が名残惜しい感じで。 

いずれにせよ、もう少し悩みます。そして自分で決めます。 
ご丁寧にありがとうございました。
 

 

 

[読者UN]少し楽になりました

MMMさん、的確な質問をしてくださり、有難うございます。 

MMMさんの質問に対する花岡さんのコメントを読んで、 
本文が、わかりやすくなりました。 

私は、この人生においてあまり成功体験がないものですから 
そのことで自らの人生を嫌い、そうじゃない人生を体験しようと 
格闘してきました。 

また、お金がなくて良かったとは、とても思えず 
自分の所にかき集めようとしています。σ(^_^;) 

一方では花岡さんが言われるような中庸な状態に憧れを持ちながら、 
一方では、それとかけ離れたありのままの自分を比べ 
苛立ったり、落ち込んだりしていました。 

そして、その度に遠いゴールを描いて 
今のありのままの自分自身を体験することを 
許してなかったように思います。 

何かになる為に人生はあるのではなく 
今、この瞬間に起きていることを体験する為に人生はあるのだと 
なんとなく腑に落ちました。 

このままで良かったんですね。 
今日はなぜか不機嫌で落ち込んでいますが 
これもそのまま体験します。 

ありがとうございました。