わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

自死は無駄なエネルギーの浪費です 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎コメント欄からいくつかピックアップしてみた。Hさんから頂いた記事です。

 

自死は無駄なエネルギーの浪費です

 

先の事を、我々は知る術はないのだけれど、でも確実に知っている未来が一つあるわけです。
それは、誰もが必ず臨終を迎えるっていう事。

差し迫った事態にならない限り、死を考える事はありません。
そもそも毎日死を考えているのであれば、異常でもあるわけです。

しかし、不安、恐怖の根底には、死という結末が横たわっています。
死の苦しみから逃れるために、自ら死を選択するという倒錯さえしてしまいます。

死からは絶対逃れられないと知っているのであれば、それは既に死を受け入れているのです。
受け入れられないのは、死に至る過程での苦痛、あるいは「わたし」がどうなってしまうのかという未知の変容に対する恐怖です。
もしくは、それら一切がどうでもよくなってしまう程の絶望感です。
絶望感も苦痛の別の形の現れです。

その苦痛、恐怖を「はしょりたい」から自死を考えてしまうのでしょう。
一気に行ける方法とか、楽に行ける方法とか考えたりするのです。

死に対する恐怖が生きようとする活動力にもなり、自死を思いとどまらせる事にもなり得ますが、生きていく過程で、その恐怖を超える苦痛を受ける時、人は自死を決行してしまいます。

自ら死を選ばずとも、放っておいても死はやって来るというのに、自死を選択します。
それはこの苦痛を逃れられるのであれば、恐怖さえ超えられると思ってしまうからです。

結局、自死を選択する原因は、苦痛にあるのです。

苦痛というのは、自らの想いが作り出す幻です。
ある人には苦痛でないものが、ある人には苦痛です。
何に対して苦痛を思うかは、その人の作り出した判断基準です。
ありもしない思い込みです。

ある人にとってそうであり、ある人にとってそうでないならば、普遍的意味を持たず、正しくは無いのです。

生まれたというのも、死を信じるのも、人が生きていく過程で誰かに現れた現象を見て「わたし」もそうなのであろうと妄想しているのです。

それらは全て、自我のレベルに展開される物語に過ぎず、現実であっても真実ではありません。
「わたし」というものを感覚してしまうから、世界という出来事、現実と呼ぶ妄想が現れます。
自我にどっぷりはまり込んで、「わたし」を絶対的に感覚するから世界を受け取るのです。

生まれた事も、生きる事も、苦痛も、死も、自我のレベルでの作り話という物語です。
物語の筋書で、苦痛を思い、恐怖をおぼえます。
それは自我のレベルでしか存在しません。
自我という意識の問題です。

ほんとうは我々は真我です。
自我があろうが無かろうが、真我です。
真我には「わたし」というものが無いから、「わたし」には自覚出来ないだけです。
そうであるなら、自我のレベルで真我を自覚できればいいのです。

自我を消す事は不可能だとしても、「わたし」を消してしまうなら、真我である事に気づけます。
「わたし」は自我に現れた二元の相対の一方でしかありません。
それは偏りそのものでしかありません。

偏った片方が怯えているのです。
怯えている「わたし」を解放するのです。
「わたし」と世界は一つである事を観るのです。

それは両方で自我という一つです。
それを真我の立場で観るのです。

生まれたというのも、生きているというのも、死を迎えるというのも、自我が二元に分かれ、その片割れが妄想しているだけです。
片割れが相方との相対関係で作り出している思い込みです。

真我の立場に入るなら、それがしっかりわかってしまいます。

わかってしまえば、二元の相対世界の物語を恐怖する事無く、怯える事無く見ていけます。
運ばれていく事全てを受け入れて運ばれて行けます。

死は妄想である事を確信できるから、苦痛もありません。
そうであるから、苦痛から逃避する必要もありません。

現実という物語を、拒否する事無く受け入れられます。
現実という世界の変化を楽しむ事ができるのです。

極貧であろうが、裕福であろうが楽しめます。
そのように真我の立場に立つのです。

そうする事無く、恐怖や苦痛から逃れようと自死を選択して、あるいは決行したとしても自我が消え去るのではありません。
それは、依然自我の中に埋没している事になります。

そこに真我への理解はなく、真我の立場に入る事はできなくなってしまいます。

「わたし」という主体があるうちに、それに気づき、真我の立場に入ってしまう事がいかに大切な事か。

運ぶ者は、運ばれる者に対して、決して意地悪ではありません。
真我は自我に対して、決して悪いようにはしません。

真我とは、真実の自分です。
真我に任せていて、全然大丈夫なのです。

真我を信頼してください。
それが運ぶ者です。
物語の作者です。

「わたしの物語」は、自我というページに愛というインクで記された物語です。
苦痛を覚えても、恐怖を覚えても、受け入れて運ばれて行くなら用意されたハッピーエンドで終わるのです。

真我の立場に立つなら、それがわかってしまいます。

「わたし」という主体も、世界という客体も、そのお互い偏った二つを、合わせてひとつのものとして観るのです。
真我はそのように自我を観ています。
そのような真我の立場に入るのです。

「わかるちから」にそれをさせればいいのです。
それは誰でも持っています。
知識や知恵とは違う、能力です。
「わかるちから」を静寂に潜入させて行くのです。

深く深く、それを感覚して行けば、ある時、突然わかってしまいます。
言葉が適用できない、わかり方です。

ただし、極めて純粋である事が必要です。
純粋とは、自我に執着しないという事。
それだから、まず明け渡す、手放す事が絶対条件なわけです。
あるいは、手放してしまえば、真我のほうから引っ張り込まれるとも言えます。

やってみてください。
絶対誰にでも、それが可能なのです。

 

2012-06-28

 

 

 

[読者D]みんな悟れると思ってるんですか?

>ただし、極めて純粋である事が必要です。 

ほとんどの人はこれができません。ですから高額な 
セミナーやワークショップで大金と時間を失うのです。 
アセンションとかなんとかをネタにしてスピリチャルで 
金儲けを企む輩が大勢います。特に2012年はそういう 
輩にとってはビッグチャンスのはずですから。 

>やってみてください。 
>絶対誰にでも、それが可能なのです。 
残念ながら、これが出来ない人のほうが圧倒的に 
多いんですよ。花岡さんに可能だからといって誰にも 
できると勘違いしないでください。 
 
 
 
 
[読者T]Dさん
はじめまして。 

確かにおっしゃる通り、高額なセミナーなどとても多いですし、私も正直、疑問に思った事もありました。

でもそのことと、目覚める事とは別だと思います。あくまでも個人が感じる事ですし、調べられない事ですからね。 

花岡さんとDさん、そして他の方の違いなんてありませんよ。 
どう目覚めるかは人それぞれです。 

勘違いをしてるのは大当たり!みんな目覚めてるのを忘れてしまってるんですね。 
人生のプロセスはそれを思い出す事でもあるのかも知れませんね。 

花岡さんの記事は解りやすくて、そして何より皆さんの糧でもありますから、いろいろな想いを抱いている方が集まって一人、一人が違った方法で、思い出して行く手助けにもなっていますね。 

私は誰でも目覚める事が出来ると信じています。 

長々と下手くそな文章ですみません。
 
 
 
[読者A]高額なセミナー
Dさん 

初めまして。 
するどいご指摘の投稿、ありがとうございます。 

>高額なセミナーやワークショップで大金と時間を失うのです。 

ほとんどの人は、高額なセミナーやワークショップに参加しても悟れないのですね。 

ボクも、もう面倒なので、いっそのこと高額なセミナーやワークショップに参加してみようかと最近思ったりしました。 

それから、不思議なのが、 
そういう高額なセミナーやワークショップを行う人々って、果たして悟ってるんでしょうか? 

エスブッダ、その他聖者と呼ばれるような方々が金儲けを企むって、想像できないんですが。
 
 
 
 
[読者D]こんばんは。Dです。
Tさんへ 
>花岡さんとDさん、そして他の方の違いなんてありませんよ。 

僭越ながら反論します。違いは大ありです。 
①自我がお手上げになるほどの強烈な絶望体験(手放し、全託) 
②病的なまでに悟り、目覚めを追い続けた人(修行系) 
私が知る限り目覚めた人ってのは①か②が当てはまる 
人がほとんです。①も②もなくハプニング的に目覚める 
人もいるようですが極めて希ですね。 
ほとんどの人は①②のような「縁」がないのです。 

>どう目覚めるかは人それぞれです。 
もちろんそうでしょう。「縁」ですね。 

>勘違いをしてるのは大当たり!みんな目覚めてる 
>のを忘れてしまってるんですね。 
スピリチュアル関連でよく見かけるフレーズですね。 
これは悟った人の言い分であって私のような凡夫 
には全くこれっぽっちも説得力がありません。自分はごまかせないのです。 
私は過去に○○○○セッションっというもので高額の 
授業料を払いましたが途中で怖くなって止めました。 
大丈夫、大丈夫あるがままでOK。あなたは既に悟っ 
てると言われても困るわけです。どんだけ金がかかるか 
まったくわかりません。 

>私は誰でも目覚める事が出来ると信じています。 

禅の老師もそういわれますね。私も信じたいのは 
やまやまですが、そんな易しいことではないと、現実が 
証拠となって突きつけられています。最難関の資格に 
司法試験というのがありますね。年間2千人弱の合格 
者が出てるようです。悟り、目覚めは司法試験合格より難し 
いのではないでしょうか?。とても皆が目指せるような 
シロモノではないのですよきっと。 

Aさんへ 
>そういう高額なセミナーやワークショップを行 
>う人々って、果たして悟ってるんでしょうか? 

少数ですが悟りに至った人いますよ。そういう人 
がブログ立ちあげるんです。ですから全てインチキ 
だというわけではないのです。 

>イエスブッダ、その他聖者と呼ばれるような方々が 
>金儲けを企むって、想像できないんですが 

現代社会では生きるためには現金が要ります。 
釈迦の時代と同じようにはできないでしょうね。 
ですから金を取ることが必ず悪とは思いません。 

本やネット上でスピリチュアルを説いている全ての 
人にお願いしたいのです。「誰でも悟れる」と安易に 
言わないでください。現実にそうではないのですから。 
お金を得てる人に対しては特に強く願います。 

花岡さんのブログは素晴らしいです。まるでクリシュナ 
ムルティのようです。難解な言葉を使うことなく、大勢 
の人に真理を伝えたいという思いが伝わってきます。 
私に花岡さんほどの「気づきの力」があればと思います。 

ですが自分の絶望的な「気づきの力」ゆえ、 
半ばあきらめかけています。
 
 
 
 
【読者A】Tさんは?

>①自我がお手上げになるほどの強烈な絶望体験(手放し、全託) 
>②病的なまでに悟り、目覚めを追い続けた人(修行系) 

Tさんの場合は、やはり②なのでしょうか? 
徹底的に思考を観察されたんですよね。

 

 

 

【読者M】Dさんへ

はじめまして。Mと申します。 
目覚めていない人間です。 
だから、目覚めている人と私との違いなんてないって事は、分かって分からない。 
ん~、そうなの?そうかなぁ?ん、そうかも!みたいな感じと表現すれば良いのかな・・・。 

Dさん、今まで随分色んな体験されてきたのでしょうね。 
今は花岡さんが、お母様の介護に専念されています。 
その間、ブログをそのままにして下さってるお陰で、こうしてコメント欄で色々お話が出来ています。 
是非、Dさんの色々なお話を聞かせて下さい。 
ここに集っている人は、私を含め、諦めてない人です。 
諦めたくない人でもあり、癒されたい人でもあります。 
元気が出るお話、諦めない為のお話が良いなあ~! 
って、私の願望です^^ 

 

 

 

【読者T】わたしは…

Aさん、私の場合は、2番かなと思います。 

急に予期せずやって来たので正直「これが、そうなのかな?」と言う感じです。 

今もエゴは健在ですが、すぐに、思考を止めて、今ここに居るようにするようにしています。 

人間ですから、泣きもするし、笑いもする、どうしようもないと思うような問題だって起きます。 
でも以前より、ずっと楽に生きられる気がします。 

Mちゃんも、Aさんも、Dさんも私もみーんな迷って迷って、出口なんかないんじゃないかと、焦り、苦悩し、ここにいます。 

でもね、もしかしたら目覚められるかも知れないなぁ~って気楽に構えてるくらいで調度いいと思うんです。 

疑いはひとまず棚上げして、「そうかも知れない」と今は思っておくくらいで。 

私も気付くと、すごい肩が上がって、力が入ってる時ありますよ。 

 

 

 

【読者S】 Dさん こんにちは

みなさま こんにちは♪ 

Dさん はじめまして。どうぞ宜しくお願いします♪ 

私は、悟り・覚醒は恩寵でしかないのだろうと思います。 

確かにスピリチャル関係のセミナーは高額ですよね。 
受けたからといって悟れるわけでもないと思います。 

でも究極には私も誰でも悟れるものだと感じています。 

悟りにも段階があるそうですね。 
悟りの一瞥、、、これは自覚がないだけで実は誰しも体験しているのではないかと思います。 

そこから先は恩寵を待つばかりです。 
私も切望していましたがある意味あきらめました。 

今はただひたすら花岡がおっしゃるように常に意識してエゴを落とす作業に専念です。 

Dさんも一緒に語らいながら進んでいきませんか?