わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】ほんとうは苦悩さえ楽しめます

我々は、既にデザインされた自分の物語を、自我の意識に展開し人生を体験して行きます。
それをただ受け入れて、あるがまま生きていくなら、なんの問題もありません。

運ばれるまま運ばれ、体験から知るべきを知り、小川を流れる笹舟のように流れていくでしょう。
しかし、なんの問題もなく生きていられる人は希です。

我々は生きていくための本能を与えられています。
生きていくための、基本的欲望です。
それを活用する事で、働き、食べ、家族を作り、日常を生活できます。
またそれがあるからこそ、ささやかな楽しみも味わう事ができます。
基本的欲望を満足させるだけの、ささやかな楽しみです。

しかし、基本的レベルを逸脱し、過剰に欲望を膨らませる素因も、どこかに隠し持っているのです。
自と他を比較することで、自分を優劣のどちらかに置かせようとします。

上と比べては自分は得ていないと不満を言い、下と比べては下に居る者を蔑み(さげすみ)ます。

みんなが平等で同等に得ているなら、だれも文句の言いようが無いでしょう。
しかし、それでは何も学ぶものがありません。
みんなが同じように、食べ、眠り、生活し、歳を重ね、臨終を迎えるだけなら、それが何になるのでしょう。

なんと不思議な事に、不平等が、不満が、状態の格差がそのまま学びの役に立っているのです。
苦しみ、悲しみ、辛い日々を生きる事が、そのまま学びの対象でもあります。

人にとっての最大の不幸は、その苦悩から学び取る事をしないという事です。
苦悩に陥り、なぜ苦悩しているのかを考える事もなく、埋没しています。
それは苦脳という尊い体験をしていながら、苦悩を知る事をせず、ただ苦悩しているだけです。

この事がわかるでしょうか?

このちょっとの気づきが、「わたしの物語」に劇的変化をもたらします。

フックをかける場所を間違っているのです。
フックをかけ直せばいいのです。

ほんとうは、誰もがそれぞれに用意された物語であるにも関わらず、自分の物語に同意できないのです。

比較する事で現れる不満によって、「わたしの物語」ではない、「理想の物語」を妄想し始めます。
それをを追い求めます。
そのために戦います。

現実と理想のギャップに、不満はますます募ってきます。
理想を高く大きく持つほどに、比例して不満は大きなものとなります。
不満の大きさは、欲の大きさなのです。
あるがまま受け入れるなら、必要なものは与えられる物語になっているにも関わらず、マインドは必要以上のものを欲しがります。

理想は必ずしも理想であるとは限りません。
つまり、欲を基本とした理想は、愛を基本とした理想とは全くかけ離れているという事です。

不満とは、自他を比較して、ありもしない優劣を断定する事から起こる不満です。

不満が「理想の物語」を想い描かせ、「理想の物語」と「わたしの物語」との隔たりから、更に不満を増幅します。
もしも「理想の物語」を捨てて、あるがままの「わたしの物語」を受け入れるなら、そこには愛による全く過不足のない理想の物語が展開されている事に気付くでしょう。

今まで想い続けてきた「理想の物語」こそ、苦悩を生み出していた不自由な物語だったのです。
それを捨て、作り出す事を止めるのなら、「わたしの物語」という本来用意された人生を歩めるでしょう。
それは、体験するために用意された、わたしの課題のための「わたしの物語」です。

では「わたしの物語」を受け入れたら、苦悩は完全に消え去り、全部がうまく運ぶのか?と言えば、そうではありません。

ここが理解の難しい所です。

うまく運ぶという、そのうまい運ばれ方を考えるなら、そこで既に「理想の物語」を作り出し、比較しています。
生きにくさを感じさせる障壁は、それでも現れるのです。
その障壁そのものを受け入れるのです。
その苦悩そのものを受け入れるのです。
苦悩の人生そのものを受け入れるのです。

「理想の物語」という夢に逃避しようとせず、受け入れて、苦悩を学ぶ事が課題です。
あるいは、その苦悩があるからこそ学べるのです。
苦悩に埋没して、ただ苦悩するのではなく、苦悩に向き合いそれを体験し学ぶのです。
それは必要な苦悩です。
ただ苦悩するなら、苦悩はいりません。

この、ほんのちょっとの、気づきです。

苦悩は嫌だと言い張り、苦悩の無い物語を追い求めるから、苦悩を消そうとして苦悩に苦悩させられます。
苦悩は嫌だけど、苦悩を体験する事で苦悩を学ぼう、受け入れようとするなら、苦悩はただの体験学習です。

そうであるなら、苦悩は人生に必要な事であるし、それが無かったら、平坦な、味も何も無い人生だと知るでしょう。
意味はそこにあります。
意味があるから苦悩がデザインされています。
それを拒否して「理想の物語」を作り出し、そこに生きるなら、現実と理想の隔たりが、学びのある苦悩を、ただの苦悩にしてしまいます。


「わたしの物語」という尊いデザインを受け入れたからこそ、ヘレン・ケラーは三重苦を克服し、得難い幸せを手に入れられたのです。

神の導きは、神の愛は、そのように働きます。
受け入れるからこそ、得られるのです。
必要なものは、与えられます。

神の愛を受け入れるなら、悟りは与えられるのです。
悟りを追い求めるなら、それは得られないでしょう。
まず、神の愛、真実の愛を受け入れるのです。
この胸に、このハートに。
受け入れる事は、捨て去る事です。明け渡す事です。
受け入れるなら、人生は劇的に変わります。

苦悩が盛り込まれた「わたしの物語」を受け入れるなら、「わたしの物語」さえ捨て去るのです。
そうであるなら、苦悩さえ楽しめる事を、実感するでしょう。

楽しんで生きる人生に変わってしまいます。

 

 

2012-06-26

 

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