わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】自死は無駄なエネルギーの浪費です

先の事を、我々は知る術はないのだけれど、でも確実に知っている未来が一つあるわけです。
それは、誰もが必ず臨終を迎えるっていう事。

差し迫った事態にならない限り、死を考える事はありません。
そもそも毎日死を考えているのであれば、異常でもあるわけです。

しかし、不安、恐怖の根底には、死という結末が横たわっています。
死の苦しみから逃れるために、自ら死を選択するという倒錯さえしてしまいます。

死からは絶対逃れられないと知っているのであれば、それは既に死を受け入れているのです。
受け入れられないのは、死に至る過程での苦痛、あるいは「わたし」がどうなってしまうのかという未知の変容に対する恐怖です。
もしくは、それら一切がどうでもよくなってしまう程の絶望感です。
絶望感も苦痛の別の形の現れです。

その苦痛、恐怖を「はしょりたい」から自死を考えてしまうのでしょう。
一気に行ける方法とか、楽に行ける方法とか考えたりするのです。

死に対する恐怖が生きようとする活動力にもなり、自死を思いとどまらせる事にもなり得ますが、生きていく過程で、その恐怖を超える苦痛を受ける時、人は自死を決行してしまいます。

自ら死を選ばずとも、放っておいても死はやって来るというのに、自死を選択します。
それはこの苦痛を逃れられるのであれば、恐怖さえ超えられると思ってしまうからです。

結局、自死を選択する原因は、苦痛にあるのです。

苦痛というのは、自らの想いが作り出す幻です。
ある人には苦痛でないものが、ある人には苦痛です。
何に対して苦痛を思うかは、その人の作り出した判断基準です。
ありもしない思い込みです。

ある人にとってそうであり、ある人にとってそうでないならば、普遍的意味を持たず、正しくは無いのです。

生まれたというのも、死を信じるのも、人が生きていく過程で誰かに現れた現象を見て「わたし」もそうなのであろうと妄想しているのです。

それらは全て、自我のレベルに展開される物語に過ぎず、現実であっても真実ではありません。
「わたし」というものを感覚してしまうから、世界という出来事、現実と呼ぶ妄想が現れます。
自我にどっぷりはまり込んで、「わたし」を絶対的に感覚するから世界を受け取るのです。

生まれた事も、生きる事も、苦痛も、死も、自我のレベルでの作り話という物語です。
物語の筋書で、苦痛を思い、恐怖をおぼえます。
それは自我のレベルでしか存在しません。
自我という意識の問題です。

ほんとうは我々は真我です。
自我があろうが無かろうが、真我です。
真我には「わたし」というものが無いから、「わたし」には自覚出来ないだけです。
そうであるなら、自我のレベルで真我を自覚できればいいのです。

自我を消す事は不可能だとしても、「わたし」を消してしまうなら、真我である事に気づけます。
「わたし」は自我に現れた二元の相対の一方でしかありません。
それは偏りそのものでしかありません。

偏った片方が怯えているのです。
怯えている「わたし」を解放するのです。
「わたし」と世界は一つである事を観るのです。

それは両方で自我という一つです。
それを真我の立場で観るのです。

生まれたというのも、生きているというのも、死を迎えるというのも、自我が二元に分かれ、その片割れが妄想しているだけです。
片割れが相方との相対関係で作り出している思い込みです。

真我の立場に入るなら、それがしっかりわかってしまいます。

わかってしまえば、二元の相対世界の物語を恐怖する事無く、怯える事無く見ていけます。
運ばれていく事全てを受け入れて運ばれて行けます。

死は妄想である事を確信できるから、苦痛もありません。
そうであるから、苦痛から逃避する必要もありません。

現実という物語を、拒否する事無く受け入れられます。
現実という世界の変化を楽しむ事ができるのです。

極貧であろうが、裕福であろうが楽しめます。
そのように真我の立場に立つのです。

そうする事無く、恐怖や苦痛から逃れようと自死を選択して、あるいは決行したとしても自我が消え去るのではありません。
それは、依然自我の中に埋没している事になります。

そこに真我への理解はなく、真我の立場に入る事はできなくなってしまいます。

「わたし」という主体があるうちに、それに気づき、真我の立場に入ってしまう事がいかに大切な事か。

運ぶ者は、運ばれる者に対して、決して意地悪ではありません。
真我は自我に対して、決して悪いようにはしません。

真我とは、真実の自分です。
真我に任せていて、全然大丈夫なのです。

真我を信頼してください。
それが運ぶ者です。
物語の作者です。

「わたしの物語」は、自我というページに愛というインクで記された物語です。
苦痛を覚えても、恐怖を覚えても、受け入れて運ばれて行くなら用意されたハッピーエンドで終わるのです。

真我の立場に立つなら、それがわかってしまいます。

「わたし」という主体も、世界という客体も、そのお互い偏った二つを、合わせてひとつのものとして観るのです。
真我はそのように自我を観ています。
そのような真我の立場に入るのです。

「わかるちから」にそれをさせればいいのです。
それは誰でも持っています。
知識や知恵とは違う、能力です。
「わかるちから」を静寂に潜入させて行くのです。

深く深く、それを感覚して行けば、ある時、突然わかってしまいます。
言葉が適用できない、わかり方です。

ただし、極めて純粋である事が必要です。
純粋とは、自我に執着しないという事。
それだから、まず明け渡す、手放す事が絶対条件なわけです。
あるいは、手放してしまえば、真我のほうから引っ張り込まれるとも言えます。

やってみてください。
絶対誰にでも、それが可能なのです。

 

 

2012-06-28

 

 

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