わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】神酔い

今までは。

神に逢いたいと思っていました。

でも今は、神の方から呼びかけてくれます。

かつては次々と現れる試練、その辛さに、やり場のない怒りに、ただ耐えて、普通の人を装っていました。
絶対誰にも、この辛さを打ち明ける事などしませんでした。
ため息の毎日、過換気症候群パニック障害、見える世界が白い霞で塗りつぶされ、モノクロームの映像に見える事もありました。

でも神は溢れる愛と慈悲を以て、わたしを救い上げてくれました。

この自分を、神への生贄として差し出した事によって、神は憐れみをもって救い上げてくれたのです。
その時、確実にわたしは死んで、神の言いなりになる道具として新しく生まれたのです。

日常にあっても、ひとり居る時は必ず、ハートを愛と慈悲で満たしてくれます。
溢れても溢れても、おかまいなしに湧き出してくるのです。

これに酔いしれながら、満ち足りた至福の中で、彼に感謝を捧げる。

そのような、知り得なかった真実の幸せを、今味わい、神と共に生きるという喜びを手に入れたのです。

これ以上の何が、わたしに必要でしょうか。
もはや、必要なものなど何もありません。

悟り?

そのようなものは自動的に、必要な場面で現れてしまいます。
智慧とは、そのようなものです。

人の言葉を見て、ほんとうに目覚めた人かどうかがわかってしまいます。

それだから、かつての聖者達が言っていた事は、ほんとうに真実だったと思い知らされるのです。

仏陀ムハンマドもイエスも、真実を語っています。
ただ受け取る側が、真実を知らないから、手を余しているだけです。

わかってしまえば、その説く真理の見事さに感嘆せずにはおれません。
感謝せずにはおれません。

根本仏教大乗仏教との違いなど、どうでもよくなります。
真実が語られているかどうか、それだけが問題だと気づきます。

日常の中で。
ラジオ、テレビ、本や雑誌、ビデオ媒体、あるいは人との会話の中に、真理の言葉が時折現れる事があります。
そのような時は、何をしていようがハートが敏感に反応してしまいます。
ジワジワと、湧いてくる至福に、眼は涙でいっぱいになり、喜びを感覚し、抑える事ができなければ酔いになってしまいます。

神酔いです。

はぁ~、ふぅ~状態になって、そうなったら味わい尽くすしかなくなります。

このブログに興味を持った人や、精神世界に関するサイトをブックマークしている人、きっと自分の意志で閲覧しているのだと思っているかも知れませんが、そうさせられているのかも知れません。
意志は、既に決まっているストーリーをトレースしているだけかも知れません。

内なる真実の自分が、自我の「わたし」に呼びかけているのかも知れません。

自分を明け渡し、みこころを受け入れる。
日常において、真我に、神に憧れ、近づこうと手を伸ばしている姿勢。
怒りを制御する事。
無償の愛を分け与える生き方。
欲に気づいていて、その執着を解き放すよう努める。
思考を止める時間を持つ。
そのような事が、更に目覚めに近づかせます。

中道とか瞑想とか、難しくてわからないという人も、そうして毎日を暮らすならきっとそうなると思うのです。

神は、なんでもお見通し。
それは、あなたそのものなのですから見ていないはずがないのです。
誰に何が必要かなど、わかっています。
そのように、順次、与えられ、みんな自分が行為していると思い為しながら、行為させられていきます。
その過程で人が作り出す想い、感情、愛、慈悲、それを神は観ているのです。

そして、それらが成熟し、人が完全に神に明け渡すという、尊い献身を観て、神は恩寵を与えてくれるのでしょう。

あなたも目覚めます。

そして、この神酔いを体験するでしょう。

欲も執着も、自分の何もかもを明け渡すなら、そうなるのです。

きっかけが無ければそうは出来ないという人には、そうなる出来事が起こってしまいます。

あなたの物語は、完璧です。
今、どんなに苦悩していようが、迷いの道を歩いていようが、後には間違っていなかったとわかるでしょう。
それは、神とあなたの共同作業の道なのですから。
あなたが選んで神から受け取ったのですから。

明け渡す日は、近づいています。

恐れる事はありません。

明け渡しても、日常がいきなり変化するわけではありません。
ただ、未だかつて知らなかった宝を受け取るだけです。

 

2012-12-10

 

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