わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】「わたし」と母の関係

「わたし」に対する「わたし」の理解は立場によって異なります。

「わたし」に完全に陥り、そこで「わたし」を観察する理解。
その「わたし」とは何処か違う立場で「わたし」を観察する理解。

この二つの観察の違いがわかるでしょうか。

慣れ親しんできた自我の中の「わたし」と、そこから立場を変えた場所にある「わたし」と。
その違いを知ってください。

工業製品に、発泡スチロールというものがあります。
衝撃を吸収する緩衝材として梱包などに利用されたり、熱伝導が極端に悪いために断熱材として使用されたりします。

発泡スチロールを水の中に沈めて手を放すと、それは水面に浮いてきます。
しかしこれは、発泡スチロールに浮力が有るのではありません。
水の分子が、発泡スチロールの下に沈んで行くから水に押し上げられているに過ぎません。

水の方が質量が大きい(単に重さと考えてもいい)ためにそう見えてしまうだけです。

質量が大きい方が、より下に沈む。
そうであれば地球のコアは、そのような質量の大きな物質で出来ているのでしょう。
きっと金やプラチナ、未知の物質があるかも知れません。

発泡スチロールの立場で見るから浮力があるように感じる訳です。
水の立場で見るなら、発泡スチロールを押し上げていると見るでしょう。
地球のコアの立場で見るなら、全て質量比で平等に引き寄せていると見るでしょう。

発泡スチロールは自我の「わたし」で、形あるわたしです。
水は「わたし」を別の立場から見る、その立ち位にあって、形無く遍満するわたしです。
地球のコアを神とするなら、つまり諸現象の根源とするなら、ちからが現象を作り出す作用は、マーハーマーヤです。

立場を変えて見る事により、真実が見えてくるという事です。

マーヤが生み出す現象を、我々は「わたし」の立場で見るから現実として感じ、その中だけで判断し、思います。
全くの幻ですが、幻である事に気づかないから執着します。

幻であるから我々は騙されているのだと言う事ではありません。
神が在ろうが、マーヤがどうであろうが、その幻の物語を、現実として生きていく事が意味のある事だという事です。

意味があるから現れているのです。
生きにくい世界を、苦労しながら、悲しみや喜びを味わいながら生きていく。
そのような尊い体験を、我々はしているのです。
これこそ奇跡そのものです。

人生を体験するのは、神を見出す事より、ずっと大切で意味のある事です。
苦労して生きていく先には、必ず愛と慈悲への気づきが待っているのです。

そしてやがて誰もが神を知るに至ります。

マーヤは神の属性であり、生み出す作用であり、生み出す力です。
同時にそれは、破壊でもあり、消滅でもあります。

我々の誰もが、生きとし生けるもの全てが、このマーヤによって生み出されました。
「わたし」と思い為すこの主体さえマーヤによって作り出されています。

ミクロからマクロまで、その法則さえマーヤです。

マーヤは全ての母なのです。

それだから、翻弄されているとしても、それは何であれ、母の愛、無償の愛から出来ているのです。

それだから、我々の本質は愛だと言えるのです。

そして愛が湧き起る源泉、それを神と言っているのです。

現実は幻想だけど、それは愛の表れであり、また真実存在する実体は、神しかないのだと言う事です。

だから気づきが起こり神を受け入れて生きるのも、神を全く知らずに生きるのも、どちらも間違っていません。
発泡スチロールが「わたし」だという立場でも、ぜんぜんいいのです。

どちらにしても、神とマーヤの愛の中で、我々は生きています。

マーヤは母の愛。

マーよ(母よ)と、呼びかけてごらんなさい。

マーは、我子に呼ばれる事がどんなにか嬉しいかわかるでしょうか。
愛によって抱きしめずにはおれません。

呼びかけてごらんなさい。
きっと、あなたのハートに、何かが起こるかも知れません。
心から呼びかけるのであればきっと。

根源、神はハートの向こう側。

でも、マー(母)は、この現象界に現れています。
そのようにして、神の臨在を届けているのです。

 

 

2012-12-15

 

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