【時系列 花岡修平】あるがままの自分
あるがままの自分。
このように言われるとき、人は自己を見つめようとするでしょう。
そうして、様々な性格上の事柄や、癖や、嗜好や、主義主張や、身体的な事や、守るべき何かについてまで考えてしまいます。
あるいは、今いかに困窮しているかとか、資産的に優位にあるかとか、比較を基にした事まで及んでしまいます。
たしかにそのような人なのでしょう。
でも、それがあるがままの、自分なのでしょうか?
それはただ形容であり、他者がするような評価でしかありません。
あなたが人を、このような人だと判定する見方で見るのではありません。
あるがままとは、そういう事を言っているのではないのです。
暴力的な自分。
怠惰な自分。
ずるい自分。
いつも他を非難している自分。
人を見下す自分。
優れている自分。
劣っている自分。
優しい自分。
恐れる自分。
いろんな自分を見つけてきます。
どこから見つけて来たのでしょう。
記憶にしまっておいたイメージからです。
人が自分を見つめる場合、多くの人が、そのイメージを見つめているのです。
しかも、そのイメージを創り出す「判断基準」が、記憶の中に頑としてあるから、そういう事が可能です。
そのような判断基準、価値基準を、いつ体験し理解したのでしょうか。
それは、押し付けられてきたのです。
人から刷り込まれてきたのです。
それが躾であり、教育だったのです。
そのような刷り込みを基に、いろいろな人を見て判断し、断定し、自らをもそれを基に判断します。
そうであるならば、その瞬間瞬間現れる対象を、また都度の自己さえも、その瞬間のあるがままを見ているでしょうか?
もしも、そのような基準を基に見るのであれば、そこには比較という見方しかできません。
基準に合致していれば肯定、ずれていれば否定するという事になります。
それが、比較が生む矛盾と葛藤です。
多くの人がそのように、刷り込まれた基準を基に比較し、「あるべき理想」「あってはいけない現実」を思ってしまいます。
その比較を基にして、自分を虚飾しようと試みます。
「あるべき理想」の自分になろうとします。
「あってはいけない現実」の自分を否定し虚飾します。
なろうとするから虚飾します。
自分を偽ろうとします。
お金もあまり無いのにブランド品を身に着けます。
それなりに美しく生まれたのに、整形します。
肯定する自分、否定する自分、虚飾する自分、それはどれも、あるがままの自分ではありません。
それは、どれも、比較によってイメージした自分です。
一切のイメージを載せる事無く、今の自分を新鮮な、初めて見るように見つめなければいけません。
なぜかって言えば。
あるがままの自分は、この今にしか居ないのです。
かつての自分を見つめてどうします?
それはただ、記憶であり、イメージでしかありません。
あるがままの自分とは、今のこの新しい自分です。
そうまで言っても、「今の自分がこのようにダメな自分なのだ」と言い張ります。
どうしても基準と比較したがります。
理想と比較したがります。
イメージを持ち込んだら、あるがままではありません。
あるがままとは、赤ちゃんのように言葉も言葉による思考も、持ち込まないで、あるがままあるその状態です。
今聞こえる音、今見える世界、今肌を撫でる風、その反応に思考せず、でも気づいている自分。
更に、そのような外側の気づきに反応する内側の動作にも気づいている自分。
この瞬間の外に反応し、思考が現れる寸前の今。
そして、思考が現れた事に気づいている自分。
そのような自分に、「あるべき理想の自分」や、「あってはいけない現実の自分」など、あろうはずもありません。
それらは「過去からの思い」でしかありません。
それらは「過去からのイメージ」でしかありません。
ほんとうの、あるがままのあなたは、そのように、純粋で濁りや汚れのない存在だと気づいてください。
それなのに、あるがままでない自分、つまり思考が立てる自我の「わたし」が、イメージを持って来て汚すのです。
汚してしまえば、あるがままの自分が見えなくなり、イメージの自分としか見えなくなります。
そういう事です。
自分が暴力的であろうが、怠惰であろうが、そんな事はどうでもいいのです。
肯定も否定もなく、イメージなく、思考なく、今新しい自分、それがあるがままの自分です。
それに在る事ができるでしょうか?
ジグソーパズルのピースを逆さまにはめ込もうとしている事に気づくような、ちょっとした気づきなんですよ。
難しい事ではありますが、それがあなたの世界を変えてしまいます。
あなたが自由になって行くのです。
とらわれが、はずれていきます。
なろうとする事に、エネルギーを使う事がなくなります。
今に満足できるようになります。
そのような、心の平安を、奥底からの安堵を、味わって欲しいと思います。
しかし、そのような事を何度言っても、多くの人はそうなのだと気づきません。
どうしてでしょうか?
気づかない事さえも、それはあるがままの自分。
つまり、
わかりますか?
導かれているのです。
今はまだ、気づかない段階を体験しなければいけません。
真実のあなたは、既に、というより、最初からわかっています。
わからない、気づかないという事を、まだ、望んでいなければならない。
そういう今なのです。
それも、大切だからです。
神は必要なものしか与えません。
たとえ、あなたにとって必要でない、拒否したいもの、状況であっても、ほんとうは必要だから現れるのです。
それは与えられ、真に必要か不必要かを、全きに知るに至ります。
みこころに間違いなどありません。
わかって、初めて言える事ではありますが、それはほんとうに、間違いなどないのです。
だから。
大切に生きてください。
生きることは、大切です。
与えられた、あなたにとって必要な、大切なこの生なのですから。
大切に、大切に、生きてください。
2013-05-22
*過去記事にはコメントがなく、この記事とまったく同じなのでリンクは省略する。