わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】集合意識ではなく、拡散意識なのです

みなさんのコメントには、いつも励まされます。
ありがとうございます。
お返事も差し上げず、無礼をお許しください。
また、質問に適切な答えをしてくれる方もいらして、とても助かっております。
心から、感謝申し上げます。

さて、PGさんからの質問です。


はじめまして 
どうしてもわからないことがあります。
この宇宙はあなたが作っているものです。と言いながら、集合意識が作っています。という説もあります。
貴方一人が作っている宇宙なら、周りにいる人間は自分の意識を投影しているダミーで、自分以外の人はひとりもいないのでしょうか?
でも、世界は集合意識の現れだというなら、人々はすべて自分の内側から世界をみているけれど、それぞれが違う世界をみているので人の数だけ宇宙が存在すると言っているのか、それとも一つの宇宙に人々が存在するのか。
または人の数だけ宇宙があり、関わっている部分で少しづつ重なっているのでしょうか?
もし、自分で作っている宇宙がひとつだけあるのでしたら集合意識ではなく、すべてが自分の意識ということになりますよね。
どうぞよろしくお願いいたします。



宇宙について知る必要は、実はあまり無いのです。

それは、物理的にそう見えているだけなのですから。
マインドがそのように見るために組み立てられている「形」に過ぎません。

形は、意識の極、表面的な、物質的な、言ったら物理意識による知覚するための形であり、最微少物質ニュートリノだろうがクオークだろうがレプトンだろうが、あるいはそれらが有している力でさえ、それは知覚しているだけであって実体ではなく、自分の中の物理意識による、人生の置き場、ハウジングのようなものです。

我々はそれを、現実と誤認して、いわゆる「生きる」を体験しているのです。

なぜそうなっているのかを、その意味を洞察する必要があります。

幻であっても、そのような仕組みが存在する事は無視できません。
大切なのは宇宙がなぜあるのか、ではなく、なぜ幻の中を「生きる」のか?という事です。

それはどうしても、我々に必要な体験なのです。
宇宙はそのための、ただの形に過ぎません。

宇宙の謎が大切なのではなく、生きていく体験が必要であり、それはどうしても尊いものだから現れるのです。

生まれてきた、あるいは死に行く、というのは確かにマインドがそのように思わせられる物語ではあるのですが、だからといっていい加減に受け取ってはならないのです。

大切だからです。

体験する事が、我々にとって尊い事だからです。
体験して、知って、やっと大切な「何か」を、我々はわかって行くのです。
決して、決して、無駄にしてはいけない、この生なのです。

そのうえで、もう少し質問に答えるならば。

宇宙は、あなたが作っています。
あなたの意識に展開されています。
決して宇宙の中にあなたが有るのではなく、あなたの中に宇宙が有るのです。

個の数だけ宇宙があります。
命を持つ個が、それぞれに、それぞれの意識に応じた範囲の宇宙を作っています。
つまり、馬も、犬も、虫も、魚も、その体験に必要な範囲の宇宙を作り出しています。
体験に必要な形の宇宙を作り出しています。

集合意識と言う考えを捨てるべきです。

我々は、ただ唯一在る、真実実体から離れてはいません。

我々は、つまり、それぞれが、その唯一実体からの拡散意識なのです。

ただ唯一在る、「それ」から放射される「作用力」によって、拡散意識の個が、個の意識に必要な範囲の宇宙を作り出しているのです。

それだから皆似通った宇宙を見るのではあるけれど、つまり、それは唯一在る、真実実体の力が作用するからそう見るのであるけれど、個々はそれぞれ、完璧に同じ宇宙を見る事は出来ません。

同じ時空座標に、同時に二つの個が存在する事は出来ないからです。
だから同じ一枚の写真を二人で見ていても、一人は左から見るように、もう一人は右から見るようにしか、見る事はできません。

ひとつの十円玉に、二十円は入ってはいないのです。

しかし、それは個々の個が作り出した宇宙であって、実体ではなく、作用力によってそう知覚しているだけです。
表面的な、ただの人生の道具としての宇宙でしかなく、実体ではないのです。

宇宙が大事なのではなく、人生が大事なのです。

しかし、幻であっても、宇宙というものは、個だけで成り立つものでもありません。

絶対唯一の在る、それが無い事には、作用を受ける個も、作用自体もありません。

光は太陽ではないにしても、太陽なくして光は無く、光は太陽を離れて在る事はできないのです。

これが、絶対者、神、唯一の在る、真実の我、つまり「これ」と、個である「わたし」の関係です。

我々は神から離れてはいません。

神が在るから、我々が在ります。

我々が在るという事が、神が在る事の証しです。

我々は、神に在りながら、個を体験し、尊い「何か」をわかり、その「何か」の作用を弱めないようにリフレッシュする役目があります。
それが、神の活動だからです。

それが愛の作用だからです。

宇宙を解明する、というのは、大して重要ではありません。
それはこのマインドの大好きな、娯楽のようなものです。
大して役には立ちません。
この世界だけの、表面的な事です。

同じように、テレキネシスやクレヤボヤンス、プレコグニッションなどと言うものも役に立たないどうでもいいものです。
幽霊やUFO、超常現象も、我々の大切な体験、尊い理解に通じる事を妨げる娯楽に過ぎません。

神通力や超能力と、尊い悟りとは、相反するものである事を知らなければなりません。
もしそのようなものを得たいために修行しているなら、なんと人生を無駄にしている事でしょう。
それらはすべて、幻なのです。

気づかなければいけません。
我々が在るのは、神の、とてつもない大きな愛の故である事を。
ほんとうは我々は、奥底では神を知っている、わかっている、それを悟っている事を。

ほんとうの神、ほんとうの愛、これが我々の本質、実体である事を。

そのために、できるだけ清らかな者に立ち返る必要があります。
利己的であってはなりません。
他を思い遣れる者でいなければなりません。

純粋で、天真な自己に憧れなさい。

そのような者である事が、悟りには必須なのです。

そのような者であれば、思考や言語を超えて行き、神を悟るでしょう。
こんなにもすごい愛があったのかと、思い知らされるでしょう。

我々は、神の愛に導かれながらも、自分の都合で導きを否定し、抵抗し、苦しんでいます。
現実が真実だと信じて疑いません。
それを前提に、あらゆるもの、事を判断しようとするから、なかなかわからないのです。

しかし、いつか気が付きます。
その時が訪れます。

この仕組み、この作用、それに驚嘆する日が訪れます。

目を輝かせて、世界を見るあなたが、いつかどこかに立っている事を、わたしは疑いません。

 

 

2014-03-02

 

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