【時系列 花岡修平】「たましい」
多くの人は、人の身体には魂が宿っていて、死後それは肉体から離れて、何処か知らないけれど遠い世界へ飛んでいく、あるいは旅立っていく、と思っているのではないでしょうか。
そして、輪廻、あるいは転生という形で魂が再生される、と考えてもいるのではないでしょうか。
そう捉えていても、そうでなくてもどうでもいいし、そんな事がわからないでも問題はない。
その理解は人の救いにとって、あんまり意味はありません。
そもそも魂という概念は、長い時代に渡って言い伝えられた根拠の無いものではないでしょうか。
ある研究者は、人の臨終に際して身体の重量を計測したら、わずかばかり減った事を観測したという話もあります。
しかし、そうであってもそれをして魂の抜けた証拠とするのは無理があるのではないでしょうか。
質量を持つものは物質に過ぎませんし、またわたしは単純にそう言っているのではなく、電磁波あるいは光も真空中を伝搬されるという事実から、真空であっても伝搬媒体で満ちている、というより、この次元場の何一つ移動する事無く、次元場構成単位がそれに変化するだけなのに、そのように時間空間の要素を適用して考えるなら、そのように見えるというだけなのではないかと言っているのです。
何もどこにも行かない。
そのように映し現しているだけ。
人の本質として皆が捉えている魂が、離れてどこかに行ってしまうという事はない。
なんかめんどくさい事を言っているのは自分でも納得しています。
こんな事は何の役にも立ちません。
しかし、様々な事を信じ切って、言葉を信じる事に慣れてしまうと、わかるというこのちからに、あるがまま見るという事に、更に遠のいてしまうのではないかと思うのです。
人はそれほどまでに、暗示に容易に従いやすいと言っているのです。
前述の光の伝搬は、波動であり粒である光の単位が場を移動して行くのではなく、場がそれに変化しているから伝搬しているように見えるという事を言っています。
つまり、テレビのドットマトリックスのように、スクリーンはあくまでもスクリーンであるけれど、そのいちいちの画素が赤になり緑になり、あるいは無発光になり、結果的に画像が動いているように見えているのと同じで、この物質世界を映し出す意識下にそれが現れているだけであり、真実は何も動いておらず、それはただ場のいちいちの単位が変化しているだけなのではないかと言っているのです。
これは、500メートル先のコンビニ行くのに、ほんとうはコンビニに行くのではなく、順次コンビニがここに現れ来ているのではないか、と言っているのです。
なぜなら、自分はいつだって、ここに居るからです。
ここと言うのは、単なる "here" ではなく、意識の存在するこの「ここ」であり、それは場所でもなく空間でもなく、「ここ」の事です。
申し訳なく思いますが、こう言うのが限界です。
自分はいつだって「ここ」に在り、身体がどこに行こうが、「ここ」は「ここ」でしかない。
表現される方が「ここ」に現れてくると言う事です。
認識する自分が「ここ」にあり、いつだってそうであるならば、表現はどうであれ、つまり生きていようが死んでようが、自分は「ここ」にあるのです。
ですから、人の共通の疑問。
「亡くなったあの人は、今どこにいるのでしょうか?」
あ、またこれかぁ・・・と思うのですが、このようにしか答えようがありません。
「ここにおられますよ」
魂が抜けて、どっか遠くの世界に行ったのではなく、最初から「ここ」にいたのであって、どこにも行ってはいません。
「ここ」がほんとうの事であって、世界も身体も生きているも死んでいるも、あの人たちも、あの山も川も、空も、それは意識にそう見えているだけで、それはまた他者との意識干渉によって何の間違いも矛盾もなく、偶然も無く、連動して出来事が現れているように見えているだけなのです。
「ここ」がその変化形態を取っているだけで、「ここ」は、ここと何の違いもなく、満ちている世界なのです。
だから、ほんとうは分離などなく、全部なのですよ。
と言っているのです。
「ここ」もここも、命で満ちている、区別しがたい同じひとつなのです。
我々は一本の木を見て、それに命を見る事ができます。(たぶんそうでしょう?)
同じように、それに続く空間が命で満ちているのです。
我々は、ひとつ、ふたつ、と数えるように世界を認識する癖ができているから、この事に気づきません。
しかし、全てがひとつなのです。
どこも「ここ」であり、「ここ」に気づく事は、死を超えるという事です。
以前は、わたしも魂という概念に捉われ、どこに行くのだろう、どうなるのだろう、そういう思いに浸りきっていた事があります。
しかし、なんと複雑で単純な事か、結局は「ここ」しかない事に気づいたのです。
「ここ」は限定された場所であるここ、とは違います。
「ここ」は、全てなのです。
「ここ」には何でもあり、何にもありません。
悟ったと言われるほとんどの方も、魂とおっしゃるようです。
それでもわたしは、魂を見た事も無く、洞察しても捉えられません。
ただ、「ここ」を感知できます。
「ここ」になんでもあるんだなあ・・・なら、これを魂としてもいいのかな、なぜなら自分の在り処だから、それでいいのではないだろうか、と今は思っています。
しかし、「ここ」は何処にも行かず、いつだって「ここ」です。
世界というものを、映し現すのを、続けるか、止めるか、だけの事なのです。
「ここ」に真我(神)が在り、それだからここにも、あそこにも神が在ります。
これは、自我から自由になって、はじめてわかる事です。
常識や宗教や思想や、あらゆる概念も、その元となっているものも一度全て捨てて、ひとつひとつ検証してみると、いかにそういうもので自我がガードされていたかがわかります。
見方が変わります。
あるがまま見るようになります。
発泡スチロールが水に浮くのではなく、水が発砲スチロールの下に沈むのだとわかります。
より質量のあるものが、下に沈むのは当たり前だとわかるのです。
「ここ」をわかるのは、そういう捉え方によるのだと思います。
しかし、こんな事はほんとうはどうでもいい。
現れ来るこの世界を、この奇跡の世界を、しっかりと生きる事のほうが、どれだけ尊い事か。
亡くなったあの人が何処にいるか、などより、自分がこの世界を体験する事の方がよっぽど意味のある事です。
その人を想い偲んで泣いて暮らしていてどうします。
悟る事より、まず、人生を生きて楽しみ、あるいはどんなに苦しいものであっても、終わるその直前に「ああ、楽しかったなあ」と言える学びをして欲しいと思います。
2014-03-16