わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】 エピソード(2)啓示

小さい頃から、

いわゆる、虐められっ子だった。

惨めな思いの蓄積。忌まわしい記憶の数々。


ある日、小学校の帰り道、

待ち伏せしていた虐めっ子に捕まり、突き倒されて取っ組み合いになった。

殴りかかってくる相手の腕を、とっさに払いのけたその時、

思いもかけず指が相手の目を突いた。


その子は痛かったのか、とっさの反撃に面食らったのか、

地面に座り込んだまま、泣きじゃくっていた。

いつも虐められていたはずなのに、その姿を見ながら、

憐みと、贖罪の思いが溢れてきて、

「ごめんね、ごめんね」と繰り返す自分がそこにいた。


いったい自分は何を考えているんだろう。

なんでこんな奴に憐みなんか掛けているんだろう。

自分の思いなのか、自分以外の思いなのか、判らなくなっていた。


周りの誰もが、自分とは何か違う。

あんなくだらない事で、はしゃいで盛り上がっている。

周りと大きな隔たりを感じながら、

自分が地球に舞い降りた宇宙人のような気がしていた。

そういう違和感を、周囲も察知していたんだろう。

虐めの対象とは、そんなところにある。


そのような出来事の連鎖は、成人してからも続き、

様々な苦渋と、少しばかりの良い事も味わって、

その度に自分というこの意識は、なんで自分に現われているんだろう、

なんで他人には、この自分の意識がないんだろう。

なんで自分が自分なんだろう。

そんな、意味不明な疑問に引き込まれていた。


25歳の時、突然、自分の奥の方から湧き出した思いがあった。


「神が在る」


「神が在るから、自分が在る。

自分のその在り方は、神の在り方と全く同じなんだ」


その意味が判ろうが判るまいが、とにかく湧き出したんだよ。

その意味よりも、その不思議さに気を取られていた。


「自分が無いことには、神さえ無い。

神が無いのなら、自分だって無い」


それから、様々な宗教勧誘の渦に巻き込まれていった。

頼みもしないのにだよ?

頼んじゃいない。 だって、嫌いだし。


統一基督教会からはじまって、

キリスト系、日蓮系、ヒンドゥーのお坊さんの行列からギータ経典をもらい、

自らも聖書を読み、創価学会の青年部の会合に引っ張り出され、

ビルの電気配線のために埃だらけの天井裏に上れば、

「わたしをどうか持ち帰ってください」と言わんばかりに、そこにあった物は、

なんと、モルモン経典。


どうしても、そういうものに触れなければならないように、

見えない力に運ばれていたのだと思う。


それでも、啓示の意味は、まだ理解できないままでいたんだ。

 

2012-02-26

 

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