わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】思考を観察する者はだれ? 

思考が思考の世界を、どのように解析しようが、それは思考でしかない事に気づかないのは驚きです。

夢の中で、夢を見ているのだと全く気づく事がないように、思考が創り出す夢の中で全く眼を覚ましません。

夢を見る者を夢が創り出しているという、この見事な自己呪縛に、呆れ果てて拍手さえ送りたい思いです。

人が思考に気づくのは、いつやって来るのでしょうか。
それほどまでに強烈な、この思考の堅固な防衛システムであるから、ほとんどの人が気づかないのも当たり前です。

思考に気づいていますか?

その事さえ、思考でやってのけようとしています。
気づく者の立場を、崩そうとしません。

気づく者が居なくなる時、真に思考を観察できます。

思考は、思考が創りあげる「わたし」によって、
また、思考を気づく者によって、完全に防衛されているのです。

思考が、思考する者つまり、「わたし」を創りあげた瞬間、ただの現れは世界になってしまいます。

意識のちょっとした一部分が、「わたし」に振り分けられる時、あるいは、ちょっとした意識の不注意が、思考にフックを引っ掛けてしまうと、すぐさま「わたし」が創られて、意識のほとんどを彼が吸い取ってしまいます。

思考の世界に「わたし」以外の「主体」を探しても、果てしのない夢を生きるだけだと言うのに、人は「わたし」を支配している見えない何か、神とか創造主とかを探そうとします。

思考の世界に崇める神など無いのにです。

ところが、

人はそれを創り出してしまいます。

それは創り出すというより、探して見つけてくるのです。

記憶の中から・・・。

この事がわかるでしょうか?・・・思考とは、記憶でしかありません。

言葉を記憶に仕舞っているから、言葉を発する時、それは常に記憶を探し続けるのです。
人々は、会話の中で、常に記憶に、過去に居るのです。

相手の目をみて話していながら、ほんとうは過去を見て話しているのです。

不安も、悲しみも、苦しみも、喜びも、

なんという事でしょう。それは、
過去から、わざわざ、見つけてくるのです。

この瞬間の新しい現れを定義するために、名前を付けるために、自己を主張するために、
人は、古い記憶にさ迷うのです。

思考とは、つまり、

記憶をさ迷っているという事です。

その中で、拠り所を探し迷い、神とか創造主とか、真我とか、あるいは誰か聖者の名前とか、なんちゃら大王とか、スピリチュアルとか、チャネリングとか、言葉を探してきて、あらぬものを組み立て上げてしまいます。

思考の中で見つけたものに、どのような真実を見ようと言うのでしょうか。

夢の中の、はかない何かに、すがっていていいのでしょうか。

名前を付けられるものに、絶対真実などありません。

名前で呼ばれるものは全て、思考が創りあげたまやかしである事を、「ここ」から観察したら、あたりまえにわかると言うのに。
誰も「ここ」に来ません。

人は「ここ」に来る事なく、思考の中に思考する者を置かれて、わたしはそれだと言い張り、更に崇めるものを妄想します。

そのような現実という完璧な夢の中で、つまり思考の中で、この大きさも時間も真ん中も端も有しない「ここ」を、ついに見つける事はできません。

思考の中で神を見つけるのは、つまり創り出すのは、「わたし」と言う囚われに、更に完全無欠な防御バリアで覆うようなものです。
それであれば、何も知らない人のほうが、まだまだましです。

知識を集めるな!・・・とは、その故に言うのです。

何も知らない者こそ、目覚めに近いのです。

思考の中に創り出した何かに、うやうやしい名前を付けて、ありもしない不思議な作用を適用して、「わたし」を喜ばしても、むしろ何も知らず、ただその日を生きる人の方が救いに近いのです。

「ここ」に来るには、「わたし」が崩れ去る必要があります。

そのために、人にはやむなく苦悩が与えられ現れます。
それによって、ある人は苦悩し、ある人は手放すに至ります。
実生活のその事が、人の迷いであり、同じその事が覚醒の手段です。

ところが、苦悩に迷ってもなお、「わたし」を明け渡す事の難しい人もいます。
北風がいかに強かろうとも、更にコートを飛ばされまいとする旅人のように。

そのような人は、思考を観察する事で、「わたし」をつぶさに知って、明け渡せばいいのですが、
ところが、こんどは観察する者を、思考が創り出してしまいます。
「わたし」が思考する者に、すりかわってしまいます。

それで、次に思考を完全に停止させる事を思いつきます。
思考を止めれば、思考する「わたし」は消えせるでしょう。

思考は止められます。
しかし、思考を止める者を、背後に隠しています。

このハードルを、いかにして飛び越えられるでしょう。

悟りも、覚醒も、気づきも、智慧も、名前を付けたら思考です。

常に、そこには過去が引きずられています。
思考も「わたし」も過去です。

未練なく、完全に過去に流すのです。

ただひとつの真実が、光明があります。

それに真実とか光明とか名付ける事無く、まかせるのです。
委ね切るのです。

この「在る」

居ません。
在るのです。

doing、この行為者は居ません。
being、この在るだけがあります。

「これ」がそれです。

「ここ」がそこです。

「ここ」に来て、「これ」によって夢を、つまり思考を観察するのです。

そうであれば、思考は力を失い、エネルギーを喰う事をしなくなります。
夢から覚醒するのです。
真我が目覚めるのです。

どうでしょうか。
今、どこにいますか?

解放を味わえていますか?
自由を、喜びを、幸せを、感覚できますか?

わたしでも誰でもなく、ただ、「これ」で在る事がわかりますか?

日常に戻ったら、ハートに「これ」を置いてください。

執着という汚れを、きちんと掃除して、ハートに「これ」を安置してください。

なんと世界がきらめく事でしょう。

世界とは自分の事である事に気づきます。

宇宙を創り出した者を知る事になります。

 

 

2013-05-08

 

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